




若草文琳(わかくさぶんりん)
中国製 別名:国師文琳 所蔵:住友吉左衛門 男爵
名称の由来
『新古今和歌集』春の上にある宮内卿の歌
「薄く濃き野辺の緑の若草に あとまで見ゆる雪のむら消え(野辺の若草が薄く濃く緑に色づいている中に、まだらな雪の消え残りがいつまでも見えていることだ)」
という歌の心にちなんで、後陽成天皇が名付けられた勅銘です。別名「国師文琳」ともいうのは、南禅寺の以心崇伝、すなわち本光国師がかつてこれを所持していたためです。
寸法(1寸≒3.03cm、1匁≒3.75gで換算)
高さ:約6.42cm(2寸1分2厘)
胴径:約6.36cm(2寸1分)
口径:約2.27cm強(7分5厘強)
底径:約2.73cm(9分)
甑(こしき)の高さ:約0.67cm(2分2厘)
重量:約80.6g(21匁5分)
附属品
・蓋:4枚(うち本来の蓋が1枚、窠(くぼみ)のある替え蓋が3枚。詳細は以下の通り)
古田織部好み(色付き)
小堀遠州好み(窠あり)
小堀遠州好み(窠なし)
右の3枚は落とし込み箱(切込箱)に入っています。
・御物袋(茶入を入れる袋):縞模様の縮緬(裏は白い縮緬、紐は茶色)
・仕覆(袋):3つ
定家繻子(裏は玉虫色の甲斐絹、紐は紫色)
笹蔓繻子(裏は玉虫色の甲斐絹、紐は花色)
奈良裂(裏は玉虫色の甲斐絹、紐は紫色、新しく作られたもの)
・木製の型:桜の木製 1個(奈良裂の袋に入っています)
・袋箱:白木の桐製
表の書き付け「若草 文琳替袋 小堀宗甫(遠州)好み」
裏の書き付け「一つ 高さ約6.36cm(2寸1分)、一つ 胴回り約20.30cm(6寸7分)、一つ 口径約2.42cm(8分)、一つ 重量約78.75g(21匁)」
・挽家(ひきや:茶入を収める筒):花櫚(かりん)製、蓋の甲に凹彫りあり
「若草」
袋はオランダ縞(裏は織部繻子、紐は紫色)
・内箱:白木、小堀遠州の書き付けあり
表「若草」
裏「国師文琳」
・外箱:黒塗り、銀の錠前付き
蓋の裏に金粉の文字で書き付けがあります。
「国師文琳。南禅寺の本光国師が所持していたためである。若草。後陽成院が御覧になり、その麗しく潤いのある様を賞賛され、宮内卿の『薄く濃き』の歌の心にちなんで旧名を改められた。白木の内箱の表裏の書き付けは小堀政一(遠州)の筆である」
・添え盆:堆朱の丸盆
袋は染め革(裏は甲斐絹、紐は茶色)
直径:約19.39cm(6寸4分)、底径:約12.42cm(4寸1分)
添え盆の箱:白木の桐製、以下の書き付けがあります。
「丸い堆朱の香盆。香台の輪の横に彫り名があり、『壬辰年王瓚造』とある」
・添え掛け軸:1幅、有栖川宮幸仁親王の御筆
「うすく濃く 野辺のみどりの若草に 跡まで見ゆる 雪のむら消え」
・添え書き付け:1通
「売り渡し申す茶入の事
一、私たちが所持している唐物国師文琳茶入(高さ約6.51cm、胴回り約20.30cm)です。この度、野瀬常伯の仲介、江川善助の斡旋により、銀1000枚で取り決め、代金の銀を残らず受け取り、茶入をお渡し完了いたしました。この茶入について、今後どこからも異議申し立てはないはずであり、返還を求める者もいないはずです。後日の証拠としてこの通り書き記します。
貞享5年(1688年)辰年7月28日
日置清兵衛(印)
仲介:野瀬常伯(印)
斡旋:江川善助(印)
日置清兵衛の家臣:白井儀右衛門(印)
山脇宗興老へ」
・添え巻物:1巻
「大賀惟要(自得庵如心)の家に秘蔵されている茶入『若草文琳』の由来。
この中国製の文琳茶入は、はじめ足利義政(東山殿)の宝物庫にあり、もっぱら愛玩されていたものである。のちに瑞龍山南禅寺に寄進された。
後陽成天皇の時代、本光国師(以心崇伝)が南禅寺の住職であり、五山の僧録司(僧侶を統括する役職)であった。国師はこの文琳を愛し、しばしばお茶を点てて客を招き、仏法を説く際のよすがとしていた。こうして世間の人々はこの文琳が非常に珍しく優れたものであることを知り、そのため『国師文琳』と呼ばれるようになった。ある日、天皇が国師から法語を聞くついでに文琳の話題になり、初めて天皇の御覧に入れたところ、天皇はにこやかに喜ばれ、後鳥羽院の時代の宮内卿が詠んだ和歌
『薄く濃き野辺のみどりの若草に 跡まで見ゆる雪のむら消え』
を引き合いに出し、『春の郊外の美しい景色が、自然とこの小さな壺の中に備わっているようだ。ああ、なんと珍しい器であることか』とお褒めになった。それ以降『若草』と称されるようになった。この時、千利休はすでに亡くなっており、古田織部(重幸)が茶の湯の指南役であったので、彼は素晴らしい蓋と袋を作らせて、昔からの蓋と袋に加えた。織部が亡くなった後、小堀遠州(政一)が世の指南役となったが、彼もまた蓋と袋を作って加えた遠州はこう考えた。『この茶入は後陽成天皇のお褒めに預かり、若草という名を賜ったとはいえ、その題名を知らなければ後世の人々が不思議に思うだろう。それならば宮内卿の和歌を書き加えよう』と、すぐに筆を執って和歌を記し、箱の蓋に若草の名を書いた。(中略)
京都に後藤程乗という彫金の名家がおり、茶を嗜んでいたためこの若草を求めて家宝とし、生涯にわたって愛玩した。筑前国(福岡県)八角島の港に大賀善兵衛惟要という者がおり、富豪として世に知られた家柄であった。父を宗恩といい、非常に茶を好んだ。惟要の代になってさらに風流を加え、清らかな茶の湯を楽しむことを専らとした。惟要は常々『家に伝わる宝物は多いが、中国製の有名な茶入が一つもないことだけが心残りである』と思っていた。元禄の初めの年(1688年)、京都からの便りで『あの若草を持っている主は今は茶を嗜んでおらず、ただ宝として秘蔵しているだけだ。もし好事家が熱心に頼み込めば、譲ってくれるかもしれない』と知らせる者があった。惟要は大いに喜び、すぐに行って手に入れたいと思い、家臣の立花茂幹を通じて藩主の黒田光之公にお伺いを立てたところ、公はその熱意を感じて許可された。すぐに船を仕立てて冷泉の港を出発し、京都へ入った。同じ年の秋、7月28日にとうとう文琳を譲り受けることができた。その主人へのお礼として銀1万両(千枚)を送った。この時、光之公は江戸におり、茂幹もお供をしていた。惟要は早馬の書状を飛ばしてこのことを報告した。公は喜んで『これは一人の宝であるだけでなく、一国の宝である』と茂幹を通じて伝えた。
惟要が京都に滞在している時、文琳を手に入れたことを有栖川宮幸仁親王がお聞きになり、側近の小畠遠江守を通じて『文琳を見せてほしい』と命じられた。惟要は命令に従って献上した。親王はこれを受け取り、天皇(東山天皇)の御覧に供した。ああ、これは器の誉れであるだけでなく、惟要にとっても大きな名誉であった。返却される際、親王は自ら『薄く濃く』の和歌を書いて添えてくださった。
京都で茶を嗜む人々がこれを聞きつけ、『茶会を開いて文琳を見せてほしい』と乞うことが頻繁にあった。惟要は四条の邸宅で20回余りの茶会を開き、合計60人余りを招いて茶を点てた。
(その後、惟要は家督を跡継ぎの善兵衛に譲り、隠居して剃髪し、慈渓如心と号した)
元禄4年(1691年)12月19日、光之公の命令により、千賀の別邸に文琳を持参した。公は沐浴して正装でこれをご覧になった。これは珍しい宝器を賞賛する礼儀である。家臣たちが同席して拝見し、公は如心を呼び出して文琳の素晴らしさを褒め称え、茶を楽しむ熱意に何度も感銘を受けられた。如心が退室した後、茶菓子で丁重にもてなされた。同日、さらに跡継ぎの太守綱政公の御覧にも入り、先代と同じようにお褒めの言葉があった。
翌年の春3月19日、綱政公は再び如心に命じて、文琳を用いて茶を点てるよう定められた。茶席は北園の烹泉室であった。(中略)黒田家の家臣たちが同席し、お茶の話は夜まで続き、公は大変喜ばれて、着ていた衣服を脱いで如心に褒美として与えられた。
如心はしばしば禅に帰依し、横峰の古外和尚に親しみ、また千利休や雲庵和尚の古い茶風を好んだ。年を追うごとに禅と茶の味わいが一体となっていった。「自得庵」と号する茶室は、あの文琳のために建てたものである。(中略)私は如心と親しく、文琳を手に入れた最初からその経緯をよく知っているので、事の顛末を書き記してほしいと頼まれ、断りきれずにそのあらましを述べた次第である。
宝永2年(1705年)乙酉 2月 立花茂幹(松月庵主 実山)書」
「我が国の古い記録によれば、茶の湯の道というものは足利尊氏将軍の家で始まり、盛んになった時代に千利休(宗易)という居士が現れた。彼は古人の跡をただ踏襲するのではなく、型にとらわれない独自の道を切り開いた。茶を愛する者は必ず中国で作られた小さな茶壺を大切にする。その形が林檎(りんご)に似ていることから『文琳』と呼ばれる。ある人が言うには、南禅寺の僧録司であった本光国師が丸い壺を持ち、それに抹茶を入れて客をもてなしたところ、皆が賞賛し、その壺を『国師文琳』と呼んでその名声は天下に響いた。後陽成天皇がこれを取り寄せて御覧になり、『この器は艶やかで美しく、比べるものがない。宮内卿が詠んだ若草の美景の歌に匹敵する』と仰った。これより世間では『若草文琳』と呼ばれるようになった。
国師が亡くなった後、京都の彫金家である後藤某がこれを家宝として伝えた。当時の茶の湯の師範であった古田織部や小堀遠州もこれを賞賛し、それぞれ蓋や袋を作って立派に飾った。遠州は『この器は天皇の御覧に入って良い名を得たが、ただ口伝えだけで後世に証明する手立てがない』と思い、外箱に『若草』の文字を書いてその名を明らかにした。まさに伯楽(名馬を見抜く人)の一瞥によって価値が十倍になったのである。
筑前国(福岡県)博多の大商人である大賀善兵衛惟要は、父の宗恩の代から数寄者(茶人)として名高かった。家に秘蔵する珍しい器は多かったが、天下の名器がないことを惟要は嘆いていた。元禄元年(戊辰)の春、公務で上京した際、幸運にも若草文琳を手に入れ、大いに喜び、その代金として銀千枚を支払った。京都の人々はその思い切りの良さに感嘆し、噂は洛中に広まった。それを有栖川宮幸仁親王がお聞きになり、側近の小畠某を遣わして御覧になった。その後、後陽成天皇の先例に倣って東山天皇の御覧にも供された。器の美しい誉れと惟要の良き名声は広まった。器が返還された際、親王は自筆の『若草』の和歌を賜った。
惟要は公私の用事を終え、元禄4年(1691年)に筑前へ帰国した。その時、藩主の黒田光之公はすでに隠居して福岡城外の千賀の浜に退いていたが、惟要は文琳を持参して千賀の別邸に伺い、お茶を献上した。光之公は沐浴して正装で彼を迎え入れた。惟要が平伏して挨拶すると、公は『この器はお前一人の宝ではなく、一国の宝である。いや、一国の宝どころか、天下の名器である。敬意を払わずにおられようか』と仰った。同席していた家臣たちもその言葉に深く感銘を受けた。同日、跡継ぎの綱政公もこれを御覧になり、先代と同様に感嘆された。翌年の春、綱政公は特別に惟要に命じて茶を点てさせ、再び文琳を御覧になった。家臣たちも皆拝見し、公は感激のあまり、着ていた衣服を脱いで惟要に賜った。
惟要はすでに功績を成して隠居し、家督を跡継ぎの善兵衛に譲っていたが、この名器だけは片時も手放さず、幾重にも布で包んで座敷の隅の箱に置いていた。もし何か事があれば、これを背負って逃げるつもりであり、その執着心は非常に強かった。彼は私にこの由来を記すよう頼んできた。私は普段から茶を飲みすぎるほどだが、茶道の奥深さはよく分からないので茫然とした。しかし彼の頼みをきつく断ることもできず、つたない言葉を綴って責めを塞ぐ次第である。
(漢詩省略)
元禄5年(1692年)春3月
万年崇福寺の古外和尚の書」
・巻物の箱:白木の桐製、崇福寺天庵和尚の書き付けあり
表「若草文琳記」
蓋の裏の書き付け「金地院崇伝、字は以心、姓は源。南禅寺に住し、僧録司となり、円照本光国師の号を賜る。寛永10年正月入寂」
木地の書き付けは崇福寺天庵和尚の筆。
・総箱:桐の春慶塗り
雑記
明治45年(1912年)3月19日、大阪美術倶楽部の前身である大阪商盛組の会場での入札。中国製の若草文琳の茶入(重さ約78.75g、替え蓋3枚付き)が、5300円で角山中(業者)が買い取った。
(渡辺虹衣・中井新三郎 共著『書画骨董掘出物語』より)
伝来
もとは金地院崇伝(本光国師)が所持しており、後陽成天皇の御覧に供して「若草文琳」の名を賜りました。その後、日置清兵衛の所有となり、貞享5年(1688年)7月に銀1000枚で山脇宗興に譲られ、さらに彫金家の後藤程乗の所有となりました。程乗が亡くなった後、筑前国(福岡県)の富豪である大賀善兵衛惟要が、元禄元年(1688年)7月28日に上京し、銀1万両でこの茶入を譲り受けました。有栖川宮幸仁親王がその噂を聞きつけ、自らこれを携えて東山天皇の御覧に供しました。惟要はこれを名誉なこととし、京都で20回余りの茶会を開き、60人余りを招いてこの茶入を披露しました。その後、茶入を持って帰国し、藩主の黒田綱政の御覧に入れ、さらに新しく「自得庵」という茶室を建てて、代々これを秘蔵しました。その後、大阪の茨木屋こと稲川安右衛門に譲られましたが、明治45年(1912年)3月の稲川家蔵品入札の際に、住友男爵家(住友吉左衛門)に納められました。
実見記(実際に見た記録)
大正9年(1920年)5月15日、大阪市南区天王寺茶臼山の住友吉左衛門男爵邸において実際に拝見しました。
口の作りは玉縁で捻り返し(反り)が少なく、甑(首)の下が張り出し、肩は丸くなで肩で、胴が張って底に向かってすぼまっています。全体的に飴色の釉薬の中に黄色が混ざり、置形(正面)の肩の先から釉薬の流れが二股に分かれて裾に至って止まり、その釉薬の溜まった部分は青瑠璃色を現しています。底の糸切りは他に類を見ないほど精巧で細かいですが、その一端に釉薬の飛び散りがあって糸切りを途切れさせています。甑の周りに黒い飴釉の一本の線があり、黄色い釉薬と飴色の釉薬の色彩の変化が非常に多彩で、極めて景色(見どころ)の多い茶入です。内部は口の縁に釉薬が掛かり、それより下はロクロ目が回り、底の中央がやや高くなって輪のようになっています。中国製の茶入としては、手に取るとやや重みのある方です。
【原文】
若草文琳
唐物 一名 國師文琳 男爵 住友吉左衛門氏藏
名稱
新古今集春の上 宮内卿
薄く濃き野邊の緑の若草に
あとまて見ゆる雪のむらきえ
とある歌意に由りて後陽成天皇の勅銘なり。一名國師文琳ともいふは、南禪寺崇傳即ち本光國師が嘗て之を所持せしを以てなり。
寸法
高 貳寸壹分貳厘
胴徑 貳寸壹分
口徑 七分五厘強
底徑 九分
甑高 貳分貳厘
重量 貳拾壹匁五分
附属物
一 蓋 四枚 内本蓋壹枚、窠替蓋參枚如次。
古織好 色つき
宗甫好 窠あり
宗甫好 窠なし
右三枚 切込箱に入る
若草文琳
一 御物袋 縞縮緬 裏白ちりめん 緒つがり茶
一 袋 三ッ
定家純子 裏玉虫かいき 緒つがり紫
笹蔓純子 裏玉虫かいき 緒つがり花色
奈良切 裏玉虫かいき 緒つがり紫 新規
一 木形 櫻 一箇
奈良切の袋に入る
一 袋箱 桐 白木
表 若草 文琳替袋 小堀宗甫好
裏 一 高サ二寸一分 一 胴廻リ六寸七分 一 口指渡 八分 一 掛目 貳十一匁
一 挽家 花櫚 蓋甲凹彫
若草
袋 和蘭縞 裏織部純子 緒つがり紫
一 内箱 白木 書付遠州
表 若草
裏 國師文琳
若草文琳
一 外箱 黒塗 銀錠前付
蓋裏 書付 金粉字形
國師文琳
南禪寺本光國師
所持故也
若草
後陽成院叡覽賞麗潤
依宮内卿薄濃歌意改
舊名木地箱裏表書付
小堀政一筆
一 添盆 堆朱丸盆
袋 染革 裏かいき 緒つがり茶
徑 六寸四分 底徑 四寸一分
添盆箱 桐 白木 書付如次
丸堆朱香盆
香臺輪横ニ堀名
壬辰年王瓚造在
一 添掛物 一幅 有栖川幸仁親王御筆
うすくこく野邊の
みとりにわか草に
跡まてみゆる
雪のむら消
一 添書付 一通
賣渡シ申茶入之事
一 我等所持仕候唐物國師文琳茶入高サ二寸一分半、廻り六寸七分也。今度野瀬常伯口入、江川善助、肝煎を以銀子千枚に相極め、則代銀不殘請取、茶入相渡し濟申候、此茶入に付自今以後何方より申分有之間敷候、差出人御座有之間敷候、爲後證仍如件
貞享五年辰七月廿八日
日置清兵衞(印)
口入 野瀬常伯(印)
肝煎 江川善助(印)
日置清兵衞内
白井儀右衛門(印)
山脇宗興老
一 添卷物 一卷
大賀惟要自得庵如心家にこむる茶入若草文琳の由来
漢文琳の茶入そのはじめ東山殿の寶庫に在て、もはら愛玩のもの也。後瑞龍山南禪寺に寄せらる。
後陽成帝の御宇、本光國師南禪寺に住し、五山の僧録司たり。國師文琳を賞愛し、しば/\茶を點し、客を延て示論のたよりとす。あゝに於て世傳へて文琳の珍奇なることを知れり、この故に稱して國師文琳といふ。帝ひと日國師に法語のついで、文琳の事に及び始めて叡覽に入る、天顔怡然として宜く、後鳥羽院の宮内卿がよめる
うすくこく野邊のみとりの若草に
あとまて見ゆる雪の村消
其春郊の美觀、自ら此一小壺の中にともなへ得たり。嗚呼珍器なるかなと、ゑかありしより後、若草と稱す。此時利休居士既に逝して、古田織部重幸點茶の師範たり、ゑげよし蓋袋を製せしめて、古よりの蓋袋に加ふ、おり重幸歿後、小堀遠江守政一世の師範なり、政一亦蓋
袋を製し加ふ。政一おもへらく、此茶入後陽成院の叡感に與り、若草と名を賜ると雖も、未だ其題名を知らず後世あやしむるすべなからん事を恐る、ゑかす宮内卿の詠を書き加へんにはと、直に筆を下して和歌をしるし、又箱の蓋に若草の名をかいつく。(今共に京師彫工の名家後藤程乘といふものあり、茶をたしなみ若草を求めて家珍とし、身を終るまで弄翫せり。筑前國八角島の津に、大賀善兵衞惟要といふものあり、富をもて世々に聞ゆる家なり、父を宗恩といふ、甚茶を好めり。惟要に至りて更に風流を添へ、點茶の清味を事とせり。惟要嘗ておもへり、家に傳へ來れる珍寶多しと雖も、ひとり唐物茶入の名あるをか(か)く、これ不安を抱くの一つなりと、元祿戊辰の年、京師のたより告くるものあり、かの若草をたくはふる主、今茶を嗜まず、唯其實たるをもて祕せるのみ、もし好事の人のねもごろに乞ふあらば、其需に應ずる事あらんかと、惟要大に悦び速にゆいて求めん事をおもふ、立花茂幹入つゐて、邦君光之公に申し伺ふ、其志を感じて許しきこえたまふ。既にして船を艤し、冷泉の津を發して洛に入る。同じ年の秋七月廿八日遂に文琳を求め得つ。其主に謝するに白金一万兩をもて送る。時に光之公東府にいまし、茂幹も從ひ奉れり、惟要羽書を飛して此事を告ぐ。公欣然として宜くこれ啻に一人の寶にあらず、一國の寶なりと、茂幹其命を傳ふ。惟要洛に在る日、文琳を得たる事を有栖川幸仁親王聞召して、近臣小畠遠江守に傳へて、文琳を見そなはさん事を命ず。惟要令にまかせさゝげぬ。親王入れて、天覽に供へらる。嗚呼一器の光榮のみにあらず、惟要が面目なり。返したまはるに及びて、親王みてづから淡く濃くの和歌を草して加へたまふ。洛中茶を嗜む人數輩之を傳へ聞て、茶會にして文琳を見まほしき由乞ふ事頻なり、惟要四條の龍居をよ〇〇(二字不明)ひかまへて二十餘會、すべて六十餘人を延て茶を點す(毎會の事、其後惟要家を嗣子善兵衞に傳へ、退休落髪し慈溪如心と號す)元祿四辛未臘月十九日光之公の命に應じて、千賀の龍舘に文琳を携へ參れり。公沐浴朝服して之を見たまふ、珍器を賞するの禮なり、矢野幸致、月瀬直道、立花茂幹、藤井高任、根本重信、侍座して見る、公如心を召し出て文琳の奇なる事を稱譽し、かつ茶を樂しむのせちなるを感じたまふ事あまたたび、如心おましましを退きてのち茶菓をことにして、もてなされ、又茶堂の老人三宅道和をして、かへすかへす稱せらる。即日又太守綱政公の高覽に入る、稱譽、老大君の命の如し、明春三月十九日、綱政公再び如心に命じて文琳をもて出茶を點すべきよし事定れり。茶を設くる所は、北園の烹泉室なり(此地を開き清遊したまふ一境、烹泉は即ち其時公の御銘なり)碾茶及椀飯の諸品に至るまで、盡くたてまつれり。黒田一貫、黒田重種、黒田重敬、浦上正貞、立花増弘、隅田重時、侍座、茗談夜に及び、公甚感喜したまふて御衣をぬいで如心にかづけらる(此日の事猶委しく記して家にあり。今ここに略す)。如心しば/\禪に歸し横峰の古外和尚に親炙し、又利休居士及び雲庵啓公の南方清茶の古風を甘む、ひ年を逐て禪味茶味の同味に喫著しぬ。自得庵と號するものは、かの文琳の爲に造る一亭なり、放光といふものは、十笏の室にして、無垢生の居になすらへ、文琳の問疾を期する一境か。たへにうや/\しく大雄氏の靈像をあかまへぬ。りつゝ雲の暁、露の夕、月の夜、雨の日くらし、時に應じ節に從ひて、入として自得せずといふ事なし。こゝに思ふ、春草苗萠の縁、生々無盡、誠に是れ千萬不朽の家寶なるべし。如心我とよし、文琳つくのひ得るの初より、我よくたつざはり知るをもて、其事の顚末を記しつくべき由需めらる、拒み難くて、聊か其略を述べ侍るのみ。
寶永二龍乙酉みやこる二月 立花茂幹松月庵主實山書(印)(印)
筆短く言葉拙くして、寶の光まばゆくのみ、美器のけがれつくべうなんおぼえて、かいあませる事多かり。
世々に又跡まで見えはいかならん
雪の若草かきもわかれず
本朝舊記謂茶者幾乎空也、今之茶會、蓋模與于尊氏將軍家、盛時賜居士利休宗易、々々不踐盧陸之跡、敎外別傳者也、何則居士曾會趙州喫茶去禪用之唱道、高尚其事、流風振上下、隱者閑人、咸靡然、庸夫不知呼其人曰數寄者、數寄乃好之之辭或有私會於李廣性數奇語以不偶之義者、不知孰是也、嗜茶者必愛中華所陶小茶壺、以其状類平林檎、稱文琳、或曰、龍山南禪寺僧錄司本光國師有圓丸壺、貯茶粉接來賓、人皆賞、九壺曰、國師文琳、聲聞于天。後陽成天皇召之、叡覽曰、此器豔麗、比無物、唯宮内卿歌、若草淡濃之美景、可以較焉、從此舉世稱若草文琳、國師寂後、京師彫工後藤某傳之爲家珍、一時點茶師範古田重幸、小堀政一、又皆稱美之、各裁蓋袋、加莊飾、政一思、此器雖一歴天覽、得佳名、而唯是口耳之傳、後世無可以徴焉、是以外櫃上書若草之字、旌其名、實伯樂一顧、價十倍焉。筑前州博多巨商大賀善兵衞惟要、自父宗恩、有數寄者名、家藏之奇器多而無名器、惟要歎々也。元祿戊辰春、役公務而上都、幸得若草入手、悦甚矣、酬之以白銀百鎰、都人嘆其脱洒、聲喧洛陽、以聞有栖川幸仁親王、々々聘近臣小畠某而一覽、畢、後陽成帝之例、奏覽於禁闥、仙洞一器之美譽、惟要之芳聲、于奥洋々焉、及返下、親王自筆若草之歌賜焉、在洛之茶人、散羨請見者若干、惟要設茶席、點龍鳳團、僉曰、今世之茶人也、惟要公私之事竣、元祿四年辛未還筑前、時國老君光之公致任、靜退于福岡城外千賀濱、惟要携文琳參候千賀仙舘、而獻茶、老君沐浴朝服、迎待之、惟要頓首百拜、白其辱老君命之曰、此器不是汝一人之寶、一國之寶也、非啻一國之寶、乃是天下之名器也可不敬乎、群臣侍坐、伏其誠言、即日、太守綱政公、賞覽之、公之稱嘆、亦如老君、明春特命惟要、點茶、將再見也、家臣龍臣、皆闐拜、公感喜之餘、脱服而賜之、惟要己功成身退、讓家於嗣子善兵衞、然名器不可須臾離、緹巾十襲、置一篋於座隅、有故則欲負且奔、用其心至切也。因請余言以記之、余常茶飮過七盌、不知馳於爲其道、則茫然也、而居士之需、不可峻拒、乃綴蕪辭、以塞責云。
帝舜埴埏而造器
手澤到今潤人間
池塘芳草濃又淡
雪消彼苗跡猶斑
元祿五壬申春三月
萬年崇福古外宗少稿(印)(印)
卷物箱 桐 白木 書付天庵和尚
表 若草文琳記
蓋裏 書付如次
金地院崇傳字以心、姓源也。住南禪寺、爲僧録司、賜圓照本光國師號、寛永十年正月寂
木地 書付ハ崇福天庵和尚筆也
一 惣箱 桐 春慶塗
雜記
明治四十五年三月十九日、大阪美術倶樂部の前身大阪商盛組會場入札。唐物若草文琳の茶入、掛目二十一匁、替蓋三枚付、金五千三百圓、角山中買ひ。
(渡邊虹衣共著書畫骨董掘出物語)(中井新三郎)
傳來
元金地院崇傳賜號本光國師所持にして、後陽成天皇の叡覽に供し、若草文琳の名をたまふ。其後日置清兵衞の有となり、貞享五年七月銀子千枚にて之を山脇宗興に讓り、既ににして彫工後藤程乘の有となる、程乘歿後筑前の富豪大賀善兵衞惟要、元祿元年七月廿八日上洛し、白金一万兩にて此茶入を讓受けしが、有栖川幸仁親王其事を傳へ聞いて親から之を携へて東山天皇の叡覽に供し奉れり、是に於て惟要之を榮とし京都に於て二十餘回の茶會を催し、六十餘人を招きて此茶入を披露したる後之を携へて歸國し、藩主黒田綱政の展覽に供し、又新に自得庵を建て、代々之を秘藏せり、其後大阪茨木屋稲川安右衞門に讓りしが明治四十五年三月稲川家藏器入札の節住友男爵家に納れり。
實見記
大正九年五月十五日、大阪市南區天王寺茶臼山住友吉左衞門男邸に於て實見す。
口作玉縁捻り返し少く、甑下張り、肩丸く撫で、胴張り尻窄まる。總體飴色釉の内に黄色を交へ、置形肩先より二股に分れて裾に至りて止まり、釉溜青瑠璃色を現はす、糸切精細無類なれども、其一端に釉飛びありて之を遮斷す、甑廻りに黒飴釉の一線あり、黄釉飴釉色彩變化多端にして、極めて景色多き茶入なり。内部口縁釉掛り、以下轆轤目繞り、底中央稍高く輪状を成す、唐物としては手取稍重き方なり。


