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鶴田 純久の章 お話

中国河南省安陽県城の西北にある殷代後期の古都址であります。
「殷墟」の名は『史記』項羽本紀にあるくらいで、古くから殷代の旧跡として伝えられてきました。
この地が改めて注目されだしたのは、清朝末年に文字を刻んだ甲冑がここから出土したことからで、盗掘によって銅器をはじめさまざまな見事な遺物が出土しました。
殷墟の本格的な学術調査は、1928年より中央研究院歴史語言研究所の李済・董作賓ら中国人考古学者によって着手され、以後1937年までほぼ年々組織的な発掘調査が行われ、多大の成果を上げました。
その成果は近年次々と刊行されつつあります。
新中国の発足後も中国科学院の手によって、1950年の武官村大墓の発掘などの成果が上げられ、公表されています。
殷墟の遺跡は小屯の丘を中心に、東は後岡、北から西北へ大司空村・武官村・侯家荘・西北岡に及んでいます。
このうち小屯地区は調査が最も集中されて大小の建築基址が多数発見されたほか墳墓も多量に発見されました。
小屯の建築基址は総数五十近くで王宮や宗廟と考えられ、長さ三八メートルに及ぶ広壮なものもあり、いずれも版築の基礎の上に礎石を置き、木で建物をつくり、壁も版築し、屋根は茅葺でありました。
小屯地区からも主に犠牲と思われる多数の墓葬が見つかっているか、殷代後期の歴代の王陵は小屯から西北、疸水の北側の侯家荘から武官村への地区で、十一基に及ぶ大墓群が発見・調査されました。
これらの大墓はいずれも盗掘されていましたが、例えばI〇〇四号大墓は深さ一三メートルで、墓室は一九メートルに一七メートルの長方形で四方に墓道があります。
墓室には木槨をつくり、木棺と多量の豪華な副葬品を納め、さらに数十人の殉死者と犠牲者を埋めてあります。
副葬品にはとうてつ文で飾った青銅器・玉器などの豪華で精巧なものが大量にあるほか、土器では大墓からは白陶製の画・盤・希・尊など銅器を模した形態の儀器などがあり、小墓では主に泥質灰陶で、副葬用の明器として爵・触・篁・盤・豆などを伴っています。
また小屯東方の後岡の調査では彩陶・黒陶・灰陶の順の層位が明らかにされ、河南省での先史から殷・周代への発展の基準が明確にされたほか、解放後に梅園荘の調査によって鄭州二里肖で初めて発見された殷代前期の文化層が、この殷墟の地からも発見されたことは重要であります。

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