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鶴田 純久の章 お話
三彩獅子香炉
三彩獅子香炉

高さ27.3cm 口径8.9×12.9cm 左右23.4cm
梅沢記念館
 この香炉も腹部にあらわされた彫銘によって、初期楽焼を考察する上で重要な資料の一つです。すなわち、腹部に「とし六十 田中 天下一宗慶(花押)文禄三年(四年)九月吉日」という銘が書されています。楽焼代々の系譜を長次郎、常慶、道入と認識している人々には宗慶の存在はまったく知られていないが、田中宗慶は常慶以前の楽焼にあってはかなり重要な人物であったように思われます。
すなわち、この彫銘にあるように文禄四年に歳六十であり、しかも天下一を称していた陶工でした。この宗慶の存在は従来まったく忘れられていましたが、かつて十四代楽吉左衛門氏が発表された一入と宗入との間で記された覚書のなかに、常慶、宗味の父として宗慶のことが記されており、さらにまた不審庵に伝来した長谷川等伯筆利休画像に寄せられた大徳寺の春屋宗園和尚の賛中に、利休に随従していた「信男宗慶」の需めによってこの賛を記したという意味のことが書かれています。とすれば、利休とも親しい関係の人であったことがうかがわれるのです。文禄四年といえば、利休も、初代長次郎も歿した後であり、おそらく宗慶が中心になって聚楽焼、すなわち長次郎焼の窯が運営されていたように思われます。もちろん、宗慶はこのような香炉だけではなく、茶碗も作ったでしょうが、しかし、宗慶作と伝える茶碗は残っていません。ところが、この獅子の香炉の胸に捺されている楽字の印とまったく同様の印の捺された茶碗が、すでに述べたように図49.51.53などの茶碗に捺されていますので、それらの茶碗を宗慶作と見ることができます。しかし、おそらくこの印は宗慶のみが用いたものではなく、天下一聚楽焼(長次郎焼)の印として長次郎、宗慶、さらにその息子である宗味、常慶など古楽にたずさわった人々が共用していたかもしれませんので、この印が捺されているからといって宗慶作と断じることはできません。そして、あるいはこの印こそ豊臣秀吉から拝領した印かとも推定されます。さらに興味深いのは、この香炉が緑と褐色の釉をかけ分けていることで、このようなかけ分けの技法は明らかに南支那から交趾支那(ベトナム)方面で焼かれた、いわゆる交趾焼の技法に通じるもののあることで、かつて田中作太郎氏が述べたように、楽焼の技術は南支那から交趾焼の工人がもたらしたもの、すなわち楽焼の先祖であるあめやは南支那からの帰化人ではなかったかという推測を深めさせる資料で、あめやは朝鮮からの帰化人であると見る磯野氏らの説と異なりますが、その作風は交趾焼の流れを汲むものであることを歴然と物語っています。

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