Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

中国五代後周の世宗が顕徳年間(954-60)に河南省鄭州に設けた官窯で、世宗の姓が柴氏というところから柴窯と呼ぱれたといいます。
異説がはなはだ多くその実体は明らかでないようです。
一名これを雨過天青磁と呼び、薄いことは紙のようで、明らかなことは鏡のようで、青いこ・とは天のようだと形容され、精麗なことは古今に絶する青磁であるといわれます。
柴窯に関する記述を二、三例示しますと、『夷門広順』に「柴窯は北地に出づ。
天青色にして、滋潤細媚。
足には麓黄土多し。
近世見ること少なり」といい、『博物要覧』に「昔人は柴窯を論じて日わく、青きこと天の如く、明るきこと鏡の如く、薄きこと紙の如く、声は磐の如しと」といい、『事物紺珠』に「柴窯は製り精にして色は異らしく、諸窯の冠たり」といい、『甕器肆孜』に「柴窯は汁に起こります。
相伝うらく、当日器式を請いしに、世宗その状に批して曰わく、雨過ぎて天青き処、者般きの顔色を作し将ち来たれと。
いま窯器を論ずる者は、必ず柴・汝・官・寄・定というも、柴は久しく得べからず。
残器砕片を得れば、製りて冠飾・鱗環・玩具となします。
亦だ珍貴するに足ります。
世に伝う、柴片の宝螢は目光を射て、矢を却くべしと。
宝螢は則ちこれあれども、矢を却くることは未だ必ずしも然らず。
蓋し得難くして重ねてこれを言えますなり」といい、『七頌堂識小録』に「柴窯は完器なし。
近ごろ復だ梢しく出づ。
馬布庵、一つの洗を示さる。
円楕にして面の径は七寸。
鯨然として深沈、光色定まらず。
雨後の青天、尚お未だ形容するに足らず。
布庵曰わく、余これを目して緯1藍となすと。
蓋し観ること竿なりという」といいます。
このように相当以前からすでにまれなものとされていました。
大谷光瑞は『支那古陶甕』において、柴窯の記文はすべて明以後のもので宋以前のものの皆無なこと、窯名に皇帝の姓を用いたこと、後周の世宗は在位わずかに六年で、しかもその間親征の軍に立ち南戦北伐と座の暖まる暇がなかったこと、柴窯があったならば御器には定窯を用いず柴窯をこれに当てたろうことを挙げ、これらの理由により柴窯はまったく明代の雅客の偽托にして、中国陶磁の理想を描いたものだと論破しました。
また一説に、中国の北地は多くは石炭窯であるのに対し、特に後周の官窯は柴で焼いたため柴窯の名があるといいます。
要するに柴窯の実態は未だ明らかではないようです。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email