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志野茶碗 しのちゃわん

志野茶碗は今日いうところの志野焼とはまったく別種の渡りものであるようで、天文から天正年間(1532-92)の茶会記にみえるものでありますが、その実物は今日に至ってもまったく伝存不明であります。
【志野茶碗の所持者】志野茶碗という文字がみえる文献は『今井宗久茶湯書抜』『津田宗及茶湯日記』などが最も早く、前者には天正六年(1578)9月15日自会の条に志野茶碗がみえ、後者には天文二十二年(1553)12月9日から天正十四年(1586)7月2日に至る期間、自会・他会を通じて志野茶碗が出現すること実に二百五回の多きに及んでいます。
今その内容をみますと、大黒屋(紹鴎)会において一回、納屋宗久会において五回、その他の百九十九回は宗及自会において使用したものであります。
以上の事実と小堀家に伝わる天正五年(1577)の『名物帳』並びに『堺鑑』(1684、貞享元年刊)を照合すると、両書ともに津田宗及・今井宗久の所持品として志野茶碗を掲げています。
紹鴎の旧蔵品の大部分は今井宗久に入ったといいますから、天文から天正年間の茶会記に紹鴎・宗及・宗久の所持として現れた志野茶碗は、結局二個しかなかったもののようであります。
次に『堺鑑』の今井宗久の志野茶碗の条には「志野宗波風流名匠にて所持せし茶碗也唐茶碗の由申伝」と注しています。
今井宗久のものがかつては志野宗波という者の所持であったか否かは未詳のことでありますが、志野茶碗という名称は原所持者の志野某の名に因んでいるらしく、これは当時の茶碗などの命名様式から考えてあり得ることであります。
【志野茶碗の性質】『津田宗及茶湯日記』の永禄十三年(1570)11月16日宗久会の条に「志野茶碗拝見申候ひときわれらの茶碗よりこまかに覚候なりそへに有之あめふくりんふかし、土紫也、茶碗うすく候、われらの茶碗より小也」とあります。
すなわちこれは津田宗及が今井宗久所持の志野茶碗を拝見し、自己の志野茶碗と比較しつつ述べた感想で、この記文からは大体次の二点を想像し得ます。
文中の「土紫也」は少なくともそれが白磁ではないこと、「ひとき云々」は『君台観左右帳記』などに照らして、それが珀瑶すなわち貫入のものであったことの二点てあります。
さらにこの時代の志野茶碗以外の茶碗をみますと、珠光茶碗・松本茶碗その他の多くが青磁であったことから考えて、あるいはこの志野茶碗も青磁の類であったかと推定されます。
もし青磁とすれば、紫口鉄足あるいは官窯などと称jる南方中国産の薄くて極めて上品なものであったでしょう。
また『津田宗及茶湯日記』の永禄八年(1565)11月7日の条に「志野茶碗貝台二スエテ湯ヲ参候」とあることなどからみて、志野茶碗は天目形またはこれと類似の形であったかとも考えられます。
しかし『茶事秘録』(1841、天保二一年輯録)には「茶筧置ノ茶碗二、志野ト云フ名物アリッ是ハ白磁ノ手ナリッ白薬カカリ、細カナルクワン二ウ有リ、茶碗ノ耳ヲ五様ノ花形二キサミ付タル物也。
今ハ何方二有ルヤラン、知レストナリ」とあります。
すなわち茶禿置きの茶碗に志野茶碗というものがあって、白磁の手のものであるというのであります。
この記述が信用するに足るものであるとすれば、志野茶碗は青磁の類であるとのみ断定しにくいです。
なお茶碗の耳を五葉にきざみ付けたものであるとあるのは、『津田宗及茶湯日記』の永禄十一年(1568)3月6日の条に「きさみ五つ也ひし五つうちへいり申也云々」とある松本茶碗と同じ様式のものであるでしょうか。
ちなみに松本茶碗は青磁であります。

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