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鶴田 純久の章 お話

茶の湯の祖。村田 珠光 むらた じゅこう
1422年(応永二九)の生まれ。
独芦軒・南星と号し、また別に香楽庵休心法師と称したとも伝えられます。
幼名茂吉。
奈良の村田杢市検校の子。
十一歳の時興福寺下称名寺の僧となりましたが、二十歳の頃出家を嫌い諸方を漂泊し、三十歳頃禅僧として大徳寺真珠庵に住し、応仁年中(1467-9)奈良へ帰りその後茶をもって両都の間を往復しました。
参禅の師は有名な一休宗純で、これから間悟の墨蹟を授けられました。
もともと珠光は幕府の同朋衆たる能阿弥に近付いてその書院台子の茶と唐物鑑識の法を学んでいましたが、『山上宗二記』によれば「コノコロ南都称名寺二珠光卜申スモノ御座候、此道二志深ク三十歳已来、茶湯二身ヲ拠チ叉ハ孔子ノ道ヲモ学ビタルモノ二テ候卜、珠光ヨリ密伝ノ事口伝ノ事、井二二十一個条ノ子細ヲ以悉ク言上ス。
又仏法モ茶湯ノ中二アルト委細二次第ヲ言上ス。
依之慈照院殿、珠光ヲ被召出茶湯ノ師匠ト定給ヒ、御一世ノ御タノシミ此一事也」とて能阿弥が足利義政に茶道の宗師として珠光を推薦したことを記しています。
珠光の茶風は「大方書院の飾り物を置かれ候へども、物数なども略ありしなり」(『南方録』)とあるように、単純で表面的な従来の書院唐物飾りの茶法から次第に精神性の方向を深めていったことは、珠光がその弟子古市播磨に与えた一文「……此道の一大事は和漢の境をまぎらかす事、肝要-用心あるべき事也。
又当時冷えかxると申て初心の大体が備前物、信楽物など持ちて、大もゆるさぬ閑けくらむ事言語道断也、かるxと云事は、よき道具をもち其味わひをよく知りて、心の下地によりて閑けくらみて、後まで冷へやせてこそ面白くあるべき也」、または「珠光ノ云ヒシハ藁屋二名馬繋ギタルガヨシト也、然則、屁相ナル座敷二名物タルガヨ『山上宗二記』 シ、風体尚以面白キ也」、「月も雲間のなきはいやにて候」(『申楽談儀』)などとあることからも知られるが、茶における珠光の理念は、すでに都鄙に行われた伝統的な衆庶の茶を連歌師が追求した精神性と、一休から受けた直人の禅精神によって深め、さらに能阿弥から得た書院茶の法を加えて、ここに茶の湯を茶道なる「道」として新生させたのであります。
のちの利休もこの意味で自ら「法ハ紹鴎二得申、道ハ珠光二得申」といい、やがて珠光は茶祖と呼ばれ開山と称せられるようになるのであります。
簡素な四畳半の茶室、竹茶杓の創作その他、陶器関係では単に奇麗な唐物の中から、苦渋の傾きの強い珠光青磁や灰被天目などに冷えた深い美を認め、高麗茶碗を天目同様に扱い、備前もの・信楽ものなどの和物の美を発見し採用したのであります。
唐物の所持も多かったですが。
中でも圖悟墨蹟・投頭巾茶入・徐煕鷺絵などは自らの数寄の精神を象徴するものとして嗣子宗珠にその尊重を遺言しています。
京都在住の頃六条堀川西に茶亭を構え、義政がこれに「珠光庵主」の額字を与えたと伝えられます。
京都・堺・奈良に弟子が多く、松本珠報・篠道耳・古市澄胤・粟田口善法・鳥居引拙らが聞こえています。
1502年(文亀二)5月15日没、八十一歳。

ウィキペディア(Wikipedia)村田 珠光 むらた じゅこう

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