水簸・水漉 すいひ

水簸 すいひ
鶴田 純久
鶴田 純久
水簸 すいひ
水簸 すいひ

陶土を泥水とし、水の浮力を借りて精粗を分別し、これにより坏土を構成する工程をいいます。
水簸は陶磁器のいかなる原料にも適用するものではなく、一般にカオリンおよび可塑性粘土の二種に限るのを常とし、その用途は磁器・上等の拓器・陶器・テラコごを得るためには水簸の工程を省きます。
水簸の方法は粘土の天然産出状態または製品の種類などに応じて適当な方法を設けるべきであるようで、必ずしも一定なものではありませんが、どの方法に従う場合も次の三段階は経ます。
(一)粘土の破砕したものを水中に投じて攬絆すること。
(二)粘土中に含んでいる砂利またはその他の粗粒を分離すること。
(三)分離された細末の泥漿を静置し、徐々にその粘土分を沈澱させること。
わが国ではいつ頃に水簸が始まったのかはまだ確言できないようです。
『別所吉兵衛一子相伝書』には瀬戸の初代藤四郎が伊部の田土を絹で漉したことを記し、俗伝には茶入の漉土は小堀遠州が指示しだのに始まったといいます。
但しこの説はいずれも信ずるに値しないようです。

自説

水簸は朝鮮陶工の帰化と共に日本に伝わったと考えられます。陶土の水簸により生地本体に使う陶土と上薬に使う釉石とに分けて採取する方法が伝わり、これまでになかった白い上薬を使うことが可能になりました。まず、唐津に伝わり、そして美濃(志野)に伝わり、これまで灰釉か鉄釉しかなかった日本に白い透明釉が使われるようになりました。

景信と唐津窯

朝鮮陶工の渡来による大陸の陶磁器製造技術が伝わってきました。土作りはもちろんのこと上薬も同じと陶土より産出します。今でこそ長石という釉薬の原料が産出されていますが、その当時(1600年前後)はその概念はなく同じ土の中から水簸により土と釉薬とを産出していたと考えられます。
泥水を沈殿させると大体三層に分け、上層はカオリン質が高いので土に使い、中層は珪石分が多いので釉薬につかい、下層は粒子が大きいのでもう一度粉砕して水簸し直します。

大陸より渡ってきた技術には、水簸と共にもう一つ大きな役割のある唐臼が有ります。
唐臼で細かく粉砕して水簸で土と釉薬を分ける技術が大きな改革点と思います。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email