陶山争論 すえやまそうろん

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鶴田 純久の章 お話

『三代実録』の貞観元年(859)3月4日および4月21日の条に、河内・和泉の両国(共に大阪府)が陶器を焼くために必要な薪を伐る山の領有をめぐって相争い、朝使の派遣によって裁定をみたことが記されています。
これを「陶山之争」といいます。
この争論が起こった地は河内・和泉の国境と思われますが、当時河内・和泉の国境にあって、しかも須恵器生産を続けていた所は、陶邑古窯址群中の逆瀬川支群(堺市南区逆瀬川)をおいてほかになく、争論の地を逆瀬川付近と推定することができましょう。
なお『延喜式』の主計上の諸国調貢物のうち、和泉は須恵器を、河内は土師器を納めることを規定していますが、陶邑古窯址群中の窯跡の大多数は和泉国に属し、しかも平安時代に限定すれば、その傾向は一層明らかであります。
したがって『延喜式』の規定は平安前期におけるこの地の須恵器生産の実態を正しく伝えているということがわかります。
※すえむらこようしぐん

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