京都の古窯。
窯は今の東山区清閑寺山の内町のあたりにあったもので、旧清閑寺領丸山、後世茶碗坂または茶碗山といった地であります。
伝説によれば遠く天平年中(729-49)に僧行基が初めてこの地に土器をつくらせたとありますが、清閑寺窯の名がみえるのは後代であるようで、しかも諸説があります。
(一)室町時代中期の宝徳年中(1449-52)に音羽屋九郎右衛門がこの地の旧跡を発見し、従来深草にあった陶業をここに移し音羽焼と称しました。
(二)元和・寛永(1615-44)の頃音羽屋六介という者が築窯しました。
(三)1641年(寛永一八)音羽屋惣左衛門がこの地でやきものを渡世とした(一書に天正・文禄年中とあるようで、清閑寺焼一名音羽焼という)。
(四)元和年間(1615-24)清閑寺住僧宗伯の開窯(一書に文禄年間焼物師宗伯とある)。
(五)野々村仁清か宗伯の門に入り、寛永年中(1624-44)清閑寺領において焼いました。
(六)慶安年間(1648-52)一文字屋某が開窯。
(七)1670年(寛文一〇)仁清および弟子九平の指導で焼いました。
これを清閑寺焼といいます。
(八)延宝年間(1673-81)雲斎という者がこの地でやきものをつくりました。
以上種々の説がありますが、要するにこの地に清閑寺焼または音羽焼という名のやきもの窯のあったことは事実であります。
今この窯所製の銘款を考えますと、「清」とあるのは仁清の印で、彩釉の器にこれがあります。
轆轤・土味よりみて仁清と名・乗る以前すなわちその大成以前にこの窯でつくったものであるでしょう。
「清閑寺」とあるものは一見仁清風であるが時代が若くみえ、仁清作と似てはいるがちがいます。
仁清と同時代または以後の作であるだろうが年代・作者ともに不詳。
また『陶寄』によれば、この窯跡のあたりから「雲」「京」「一文字屋」の印がある陶片および匝鉢が出土したといいます。
(『陶器考付録』『本朝陶器孜証』『工芸志料』『観古図説』『陶器類集』『日本近世窯業史』『陶寄』蜷川第一)