筑前国博多瓦町(福岡市)の産。
初代正木宗七は黒田侯の素焼物細工師。
その家祖は播磨国(兵庫県)の人で、黒田如水に従い豊前国(大分・福岡県)、さらに筑前国(福岡県)に移り、築城の瓦を製造した功によって博多瓦町に住む特許を得ました。
初代宗七は楽面をもつくりました。
1766年(明和三)正月没。
二代宗七も同じく藩の素焼師であるようで、1773年(安永二)に柚肌錆地焼の新法を工夫しました。
1790年(寛政二)没。
遺作はまれであるが鳳凰風炉は有名であります。
三代宗七は名を堅茂といい、通称惣七・総七、隠居して仁三と称しました。
歴代中の妙手で風炉・手炉・香炉・火鉢・火入・煌炉のほか床置・文鎮・狂言人形・楽面などの作品があるようで、名声は時を追って広まり黒田侯も非常に厚遇しました。
父祖伝来の「宗七」のほか「陶宗宗鈎」「総七」などの銘を用いました。
1830年(文政一三)7月没、八十三歳。
なお三代宗七の弟に武助かおり同じく妙工でありました。
また手代に伊助という者かおり「宗七」の款識の上に「イ」字を冠しています。
四代宗七は名を幸弘といいまた別に河浜亭と号しました。
早くから父の薫陶を受けて技術意匠は卓絶していました。
1804年(文化元)に丁子風炉一対をつくり博多焼の名を冠して朝廷に献納しました。
偶像をつくることが巧みで遺作が多いようです。
河浜亭・正木幸弘の款を並べて書いたものは最も得意の作であるといいます。
1842年(天保一三)9月没、六十九歳。
五代宗七は養子で1862年(文久二)7月没。
六代宗七は名を弘茂といい、父祖の血を受け製作は精妙で「弘茂」の銘があります。
1873年(明治六)9月、四十歳で病死。
継ぐ者がなく業統はここに廃絶しました。
なお世に宗七を博多人形の創始者としているのは誤りであります。
(『石城誌』『茶わん』四九)
宗七焼 そうしちやき
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