岐阜県恵那郡猿爪村(瑞浪市陶町猿爪)の人。
1891年(明治二四)同地に生まれ、1909年(同四二)名古屋市立商業学校を卒業後、中国貿易研究のため満州営口(遼寧省営口)に渡り、1910年父猪之助の死に遭い帰国、家業の山庄製陶所を継ぎ製磁に従事。
1911年率先して石炭窯の研究に着手。
1912年(大正元)アメリカ向け青磁食器を生産し森村組に納入。
1918年(同七)日本陶器株式会社の委託により隣村に蛙目水簸工場を建設。
1923年(同こI)初めて石炭窯を築窯。
1930年(昭和五)日本陶器株式会社の委託を受け長崎県対馬の厳原町に対州白土鉱業所を建設し、対州カオリンの採掘を開始。
この年にまた硬質陶器によるタイルの製造に着手し、翌年これを月星建陶社という専門工場として発足し輸出を行ないました。
1933年(同八)これを名古屋市港区千年町に進出させて、自らの設計によりハロップ式トンネル窯を築窯し、タイル部門の主力をここに移した(のち改組、曾根タイル株式会社と改称)。
1935年(同一〇)陶町猿爪に高級磁器によるディナ一セットの白素地製造工場を建設、曾根磁叟園製陶所と称しハロップ式重油焚トンネル窯を築き、業界に率先してこれが成功を収めました。
1943年(同一八)戦況の激化に伴い工場のいっさいを化学磁器の製造に転換し、曾根タイル株式会社を曾根化学窯業株式会社と改称。
1946年(同二こ名古屋市東区白壁町に、続いて長塀町に、また北区生駒町に上絵付加工工場を建設し、輸出向けディナーセッ卜の一貫製造工場となりました。
その後、戦後休業中の曾根化学窯業株式会社を再開して名古屋市北区金作町に工場を建設、上絵付工場のいっさいをここに集中させました。
1949年(同二四)名古屋市東区東白壁町の自宅において五十八歳をもって没しました。