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鶴田 純久の章 お話

瀬戸系諸窯において焼かれた雅陶で、織部焼の一種。
【特徴】志野焼は乳濁釉のところどころに紅赤色の火色を現わし、あるいはこれに鉄釉の疎画を加えます。胎土は白色粗糖、釉は他の陶磁器と異なり純粋な長石釉を施し、貫入があります。鉄絵の文様は極めて簡素で、しかもその発色は焼成火度に応じ黒色・褐色・赤色・鼠色というように多様の変化を示します。また高台の周辺あるいは底部の切り際に赤色の焦げがあるのを志野独特の景色の一つとします。志野焼は後述するように織部焼の一種であり、意匠・作行ともにわが国独自の創作で、その古製はすこぶる珍重されます。品種は茶碗のほかに火鉢・花生・水注・水指・建水鉢・皿・猪口・向付・香合・油盞などです。また名物志野茶碗には卯花橋・朝萩・朝陽・山端などがあります。
【種類】(一)無地志野文様のないもの。(二)絵志野釉下に鉄砂絵のあるもの。(三)鼠志野素地を鉄分の多い泥漿で化粧し、文様を彫って化粧地を除き素地を現わし、その上に長石釉を掛け、焼き上がりがちょうど象嵌したようにみえるもの。
この手の中に焼き加減で鼠色となるものと、紫褐色となるものとがありますが、これは原料の差異と窯の加減によるもので、特に区別すべき理由はなく等しく鼠志野と称して差し支えません。(四)赤志野前者と同一の技法によるものですが、化粧に用いる鉄泥は前者よりも鉄分が少なく、発色は赤色を呈します。文様を掻き落としの手法によるのは前者と同様ですが、鼠志野に無地ものがないのに反し赤志野には無地のものがあります。(五)紅志野志野の母体に紅色の呈色をなす鉄泥の化粧を施し、その上に鉄文を描くもの。鼠志野・赤志野のいずれもが掻き落とし手によるものですが、それと相違してこれは鉄で文様を描くのを特徴とします。(六)練上手志野木理手ともいいます。鉄気のある土とない土とを練り上げてつくったもの。
【志野焼の発生】最初瀬戸から美濃に赴いてこれを焼き始めたのは加藤与三兵衛景光と推定され、久尻窯あるいは大平窯または大萱窯で焼かれたようです。与三兵衛景光はもと赤津に住み、市右衛門と称して1574年(天正二)織田信長よりおおざまち朱印状を拝領しましたが、のちに同業の嫉みを買い身に危害の及ぶことを恐れて美濃に移住したと伝えられます。『瀬戸大竈並ニ唐津竈取立之来由』によれば、景光の子四郎右衛門尉景延は久尻窯で白釉手の茶碗をつくり出し、これを正親町上皇に献上したところ大いに嘉賞があり、1597年(慶長二)七月五日ついに筑後守に任命され筑後の朝日焼の名を賜わったと記しています。この白釉手とそ志野焼であり、ほとんど定説であるかのように世にいわれている「志野焼は文明大永年間志野宗信好みを授けて瀬戸にて焼かしむ云々」はまったくの仮説であり、実は上述のように志野焼は安土・桃山時代に発生したものです。志野焼の文様の多くが唐津の絵文様に通じるところがあるのは、四郎右衛門尉景延が森善右衛門に従って唐津に赴き登窯の法を学んだことに照らしてみますと、志野焼の文様もまたその影響を受けあるいは逆に自己の手法を唐津に及ぼし、それゆえ志野焼と唐津焼とが相通ずるものであろうことは推定することができます。また志野焼の発生時期を決定する一傍証となり得るでしょう。
【美濃における志野陶片出土地】岐阜県可児郡可児町久々利大萱窯下窯、同大萱牟田洞窯、同大萱中窯、同大平由右衛門窯、土岐市泉町久尻元屋敷窯などからは無地志野・絵志野・鼠志野を産し、同町久尻高根山窯からは練上手志野を産し、中窯からはほかに紅志野を出土します。これらはいずれ志野焼初期のものらしく、同じく泉町久尻勝負窯、同町久尻元屋敷東方の、同町大富大富窯南部および西部、同町定林寺定林寺窯、同町定林寺園戸川窯、妻木町上郷窯下窯などから現われる志野焼の破片は、前者に次ぐ時代の製と推察されるものです。
【志野焼という名称】従来ややもすると「志野茶碗」と「志野焼」とを混同し、天文から天正年間(1532~192)の茶会記にみえる志野茶碗という名称から志野焼の初現を説とうとする者がありますが、志野茶碗は唐物であって国産ではない(「志「野茶碗」の項参照)。志野焼は大部分が安土・桃山時代に瀬戸系諸窯において創製された国産です。文献に現われた志野焼を考えてみますと、『瀬戸大竈並二唐津竈取立之来由』には「扨て二代目加藤四郎右衛門尉(景延)受領節禁裏奉上所之竈細工之焼物者此地にて始めて焼出之白薬手之茶碗なり(下略)」、また「宗堪日記』慶長十一年(1606)九月二十一日古田織部会に「香合今ヤキ白」、『森田久右衛門日記』延宝六年(1678)九月六日の条に「尾張瀬戸赤須より北へ五里参り美濃の内くしりと申所にて焼物仕る、大形白きものやき申由、水指茶入、茶碗焼申由、瀬戸之如く茶入やき申事成不申(下略)」、同九月八日の条に「同日美濃の内くしりと申所に焼物仕る、是は瀬戸より北へ五里参ると申す、やきものは白水さし花入茶碗迄也、あまりよく無之候」とあります。『万宝全書』には「織部焼茶入△沓茶碗とてせいひくき手あつにゑくぼ入土色白く黒薬薄柿濃柿白薬にくろき染付の絵有地薬白きはくはんゆう有形は色々かはり有◇火入灰嘘花生水続(ミヅツギ)〇水さし水こぼし◇鉢皿ちょく香合◇かはらけ油盞根付じめ等色々の道具物好にて焼たる物なり但瀬戸織部唐津織部とて二通有又後織部とて近代に出る物あり(下略)」とあります。これらはいずれも今日いうところの志野焼を説いています。しかしどの書もまったく志野焼の文字を用いず、特に『万宝全書』などは織部焼の次に今日いうところの志野焼を説いています。さらに『鑑定秘書』に初め「茶碗近来有り真織部是は近代の名也大坂宗真茶入と付世の人是を合点して篠焼と云は真織部也」とあります。また『名器録』にも「織部、黒織部御好を志野と大坂城宗真と申者此もの名付申候」とあります。大阪城宗真とは『茶人花押之籔』にいう「城宗信は大坂に住し、土岐豫州侯に仕ります。正徳「元年七月没す」の城宗信でしょう。また土岐予州侯とは1691年(元禄四)から1712年(正徳二)までの間大阪城代であった土岐伊予守頼殷でしょう。さらに『槐記』中の享保十一年(1726)から同十四年(1729)までの間に「茶碗(中略)シノヤキノ白」「御水指志の焼」「茶入シノヤキ」「茶入シノヲリベ」などの文字がみえ、以来『茶盛茶怨目利書』『茶碗目利書』『茶器目利集』などの写本類にもシノ焼・焼の文字がみえます。これによって考えてみますと、志野焼という名称は元禄から正徳の間(1688~1716)に大阪の城宗真という者によって初めて命名されたもので、その称呼は享保(1716~136)頃から次第に世に通用したようです。以上の推定に対しここに問題となるのは、1785年(天明五)正月に瀬戸村重右衛門らが尾張藩の茶道方へ録上した志野焼の由来書に「伝へ云文明大永年中、志野宗信正志野宗と云ふ人あり茶道を好む故に其頃加藤宗右衛門春永に命じて古瀬戸窯、椿窯にて茶器を焼出す是を後志野焼と「称す」とあること、および『陶器考』の「志野呂同シ志野ハ元来呂宋ノ白薬の画沓鉢ナリ、志野宗信物数奇ニテ用ヒショ今井宗久伝へシ由、名物記ニ出テモノト書ス、コレヲ尾州ニテ写サセシナリ。(下略)」とある一条である。両書はいずれも志野焼の創始を室町時代の人志野宗信の物数奇によるものであるとするもので、この説は長い間定説であるかのように世に行なわれていました。し前述したように志野焼が実際に創製されたの安土・桃山時代であり、決して室町時代ではありません。しかも両書の内容を検討してみますと、前者に例えば棒窯にて云々とあるのにもかかわらず、同窯の発掘では志野釉のものをまったく出土しません。後者に至っては、志野は元来呂宋の白釉の画沓鉢なり云々とあるように、諸種の点からとうてい考え及ぶことができない呂宋の画沓鉢というものを引き合いに出すなど、その俗説であることは疑いのないことと思われます。考えるに両書が志野焼を志野宗信に付会したのは、おそらく『堺鑑』にみえる「志野茶碗、志野宗波風流名匠にて所持茶碗但茶碗の由申伝」の一文によるものらしく、しかも宗波を宗信としたのは、元禄年間(1688~1704)の大阪城宗真の名を混同したのではないでしょうか。さらにその志野焼という名も、前記の『鑑定秘書』にみえるように、初め城宗真が茶入に「」という銘を付けたのを後世志野誤ったものらしく、このことにも古い志野茶碗との付会をうかがうことができます。
【織部焼との関係】前掲の『万宝全書』が志野焼織部焼の目の下に説いたこと、および『名器録』の「織部黒織部御好を志野と云」、「茶盛茶怨目利書』の「おりべしのやきといふ」、「茶碗目利書』の「織部シノ焼」、「鑑定秘書』の「焼織部焼ニテ品々器物アリ」同じく「京織部京焼ニテ焼ヲ似セ品々器物有」『茶器目利集』の「織部シノ焼黒織部好ナリ近年シノ焼ト云事ハ大坂ノ城宗真ト申者名付ル」などとある文献的事実志野焼と織部焼との窯業上の関係、および当時の指導者の関係、作行・意匠の親縁関係などを考察しますと、志野焼と織部焼はまったく同一種類に属するものであり、このことの最も有力な徴証は、古い志野焼の箱書のほとんどが「織部焼」または「織部シノ」「志の織部」などとある事実です。以上の諸種の点からしますと、志野焼は織部焼の一種であり、窯業上志野焼は織部焼の初期をなすものであることを断言できるのです。

おりべやき

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