江戸の陶工。
乾山写しの名手で、乾斎または己斎と号しました。
下総国(千葉県)海上郡布間村の人で、九歳で江戸に行きのちに骨董の売買を業としました。
その後製陶を思い立ち1825年(文政八)浅草蔵前(台東区)で自作の陶器を売りました。
広く古陶器を研究し、これを応用して精巧で非常に小さい57玩具類をつくり。
1834年(天保五)浅草観音境内に移って店を開いました。
流行に乗じて名声を得、しばしば将軍家から席焼を命じられた。
その後店を閉じ、1854年(安政元)六十三歳の時に甥の三浦乾也と共に長崎亀山窯に赴き、帰路伊勢国(三重県)の竹川竹斎の射和万古窯に助力し、その後武蔵国(埼玉県)飯能窯の復興に力を尽くしました。
1861年(文久元)没、七十歳。
橘禄銘も用いました。