帯山与兵衛 たいざんよへえ

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鶴田 純久の章 お話

京都の陶家。
初代高橋藤九郎は近江佐々木氏の遺臣であります。
延宝年中(1673-81)京都粟田東町(東山区)に住み陶業を創始し、帯山と称しました。
それは粟田山を帯びるの義によるといいます。
二代与兵衛は享保年中(1716-36)に抹茶器を製し、三代与兵衛は1752年(宝暦二)に業を継ぎ酒茶器を製しました。
四代与兵衛は天明年中(1781-9)に業を承け、寛政年間(1789-1801)には別に陶質の瑠璃地および堆朱様の諸器をつくりました。
五代与兵衛が文化年中(1804-18)に陶質青甕を創製するに至って初めて禁中の調度を調進し、以後も続けました。
六代与右衛門は天保年間(1830-44)に彩画陶器を製したが、これが粟田彩画のはじめであります。
当時松村景文・岡本豊彦らに交わりその揮毫の器物は今なお世に多いようです。
七代与兵衛は嘉永(1848-54)に、八代与兵衛は文久(1861-4)に業を継ぎ、明治中期の九代に及んです。
1885年(明治一八)当時に帯山のつくった粟田陶器は、原土を滋賀県下田、京都の大日山(大日交)・泉涌寺(並土)・日の岡、および兵庫県有馬(ナマゼ土)に取り、釉料は熊本県天草および滋賀県信楽の黄ノ瀬から買い求めたといいます。
なお一書によれば1894年(明治二七)頃業を廃したといいます。
(『観古図説』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『工芸鏡』『陶器類集』)

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