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鶴田 純久の章 お話

鉄質黒釉の茶碗で、茶の湯の台子点前用または貴人点に用いる茶碗。
これを天目と呼ぶのはわが国の俗称で、中国での呼称ではありません。
天目という名称の起こりについては古来定説はありませんが、おそらく中国浙江省天目山の仏寺の常什であったのを、鎌倉時代に往来したわが国の禅僧が持ち帰り、また喫茶法をも多く天目山の霊場から得て来たため、この地の寺院の常什の茶碗を天目と呼んだのでしょう。
天目山で焼成したので天目と呼ぶという説もありますが、この地には古来陶窯はなく、明らかに謬説です。
天目山に接近して福建省の建窯があり宋代には建蓋を産して有名でしたから、天目山で用いた茶碗は建窯の天目茶碗だったに違いありません。
建蓋天目は素地は堅く、黒褐または紫褐色を呈し、下部は厚手につくられています。
形状はやや浅くて開きかげんで、高台は低くて小さく、碗の口縁は餓嘴状の曲線を有し天目形の特徴とされています。
釉薬は鉄およびマンガンなどによつて黒・褐・館甲色などを呈し、さらに種々の窯変を現している。
外部の釉際は腰の下部で留まり素土を現すのを例とします。
わが国ではその茶碗に基づいてその型の形状を天目形と称し、その釉と同種の鉄質黒褐釉を天目釉と呼びます。
堅焼の色釉としてはほとんど原始的なもので、中国では建窯のほか宋代江西省吉州窯の吉安天目、北末の黒定窯、宋末の河南天目などがあり、さらに高麗天目、遼代満蒙の鉄釉妬器もその一種です。
これらの大部分は石炭地層の油頁岩を原料とし、さらに石炭で焼成したものとみられます。
わが国の天目釉は鎌倉時代に瀬戸で用い始められますが、おそらく建窯の天目釉を写そうとしたのでしょう。
瀬戸地方の古窯跡には天目釉の茶碗・茶入の多く出るものがありますが、これらには禾目以外の変種は見当たらず、やや時代が下るのではないかと思われます。
日本製の天目茶碗には瀬戸天目・白天目・燕天目・菊花天目の名があります。
室町時代の『君台観左右帳記』東北大学蔵永禄古写本には、土之物として曜変・油滴・建蓋・烏蓋・惣蓋・能皮盞・灰被の七種の天目を掲げています。
群書類従本の同書には上記のほか只天目・黄天目の二種を加えています。
『和漢茶誌』によれば、曜変・油滴・建蓋・灰被・黄蓋(黄天目)・烏蓋・蛾皮盞を天目七種の名物といいます。
天目茶碗に対するわが国茶入の古来の分類は極めて混沌としており、すでに挙げた名目のほか、禾天目・蓼冷汁・兎毫蓋・芒変・芒曜・星建蓮・煉天目・真天目など種々の天目があります。
各項参照。
これらの種類に分けているのは産地が極めて多方面であるうえに、窯変によってさまざまの釉調があり、また焼け損ないの類があるのによります。
一般に純黒・紫褐・黄飴などの釉色で、光沢・透明度などはさまざまですが、その緑色がかったものには四川省の産であろうと推定されるものがあります。
素地の色もまた変化が多く黒褐あるいは紫褐から淡褐色にまでわたっています。
一般に天目茶碗の形は口が開き高台の締まったのが常ですので、これを使用する時は天目台に載せるものとします。
わが国では中国の習慣に倣?て茶礼上最もこれを尊重し、台子真・行の習いとして唐物天目を用い、また今日でも献茶・供茶や貴人点の場合には天目を用いることがありますが、千利休以来佗茶が行われるに及んで茶碗の選択は変化し、平常の茶事に天目を使用することが少なくなりました。
(『茶録』『君台観左右帳記』『和漢茶誌』『明日は今日の物語』『万宝全書』『茶道笙蹄』『倭訓栞』『茶具備討集』『和泉草』『嬉遊笑覧』『天目茶碗考』『陶器考』『大正名器鑑』『支那古陶甕』『支那陶磁源流図考』『匋雅集』)

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