京都の陶工。
1846年(弘化三)山城国愛宕郡粟田領(京都市左京区)に生まれました。
幼名を重次郎、のち幸右衛門、1895年(明治二八)1月から号の陶山を本名としました。
1863年(文久三)十八歳の時、習画の師小泉東岳の勧めに従って陶事に転向し亀屋旭亭に入門、続いて三代高橋道八・村田亀水・幹山伝七・帯山与兵衛・一文字屋忠兵衛・岩倉山嘉兵衛らの指導を受け、さらに広く各地の窯を見学して1867年(慶応三)京都の白川畔で開業。
1873年(明治六)山城朝日焼の復興に尽力、1884年(同一七)粟田陶磁器組合長に推され、1891年(同二四)かねて研究していた本焼絵付の技法を完成し粟田本来の特質を発揮して賞賛され、1896年(同二九)京都陶磁器同業組合の頭取となって陶磁器試験場と伝習所を設立させました。
1898年(同三一)辞職、翌年6月緑綬褒賞を受け、さらに1912年(同四五)久邇宮邦彦王から「陶翁」の号と共に金銀印を賜りました。
1917年(大正六)6月帝室技芸員に任命されました。
1920年(同九)滋賀県膳所焼を復興。
古稀を過ぎてから洛東鏡山の麓に新窯を起こす決意をし同年9月22日開窯、その2日後の24日に七十六歳で死んだ。
晩年旧膳所藩の本多久信を養嗣子に迎えました。二代陶山であります。
(『日本窯業大観』)