万古焼 ばんこやき

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鶴田 純久の章 お話

伊勢国(三重県)に産する陶器。
元文年間(1736-41)桑名の大沼浪弄山が好事から三重郡朝日村字小向(朝日町小向)に窯を築いたのが起こり。
弄山はのち江戸へ移り、向島小梅(墨田区)のあたりで製陶しました。
弄山の作品を古万古・弄山万古といい、江戸での所製を別に江戸万古と呼びます。
その後一時中絶したが、天保年間(1830-44)に同じ桑名の森有節が小向村の旧地に窯を設けて作陶しました。
これを有節万古・再興万古・朝日万古などと呼びます。
安政(1854-60)初年に至って飯野郡射和村(松阪市射和町)の国学者竹川竹斎は、弄山の古法を学び居村に万古焼を起こしました。
これを射和万古といいます。
有節以来万古焼の伝統は次第に伝播して、桑名や4日市付近に窯を起こす者が続出しました。
桑名万古と総称されるものには安永万古・布山万古・孫三万古・権六万古・走り井万古・山城屋万古・三河屋万古・精陶軒万古・天神万古などがあるようで、型製の急須にすぐれた作品が多いようです。
新万古と呼ばれるものは4日市付近に多く、山中忠左衛門・堀友直・川村叉助・伊藤庄八・生川喜作・岩名芳兵衛らの陶工がいました。
中でも川村又助は現在の4日市における万古焼の隆盛の基礎を築き、販路の拡張に努めました。
当時4日市には小川半助・山本利助・伊藤豊助・喜助といった名工がいました。
作品は主として素焼や茶褐色の急須でありました。
近年の4日市産で大正万古と呼ばれているものは、日用雑器が主で、年産六百万円のうち四百万円は輸出されました。
なお付近には鈴鹿万古(関万古)・富田万古・松阪万古があるようで、同県の安東焼・阿漕焼・久居焼なども万古焼の一系統ということができますし、さらに美濃国不破郡赤坂(岐阜県大垣市赤坂町)の温故焼(美濃万古)、下野国足利郡樺崎村(栃木県足利市樺崎町)の下野万古、羽後国秋田郡泉村(秋田県秋田市泉)の秋田万古などはいずれも伊勢万古の流れとされています。
それぞれの項参照。
ぱんざい(万歳)銘。
京焼と思われる急須にこの銘がありますが、産地は不明。
(『日本陶(゛皿Wy器目録))ぱんざいだいかい(万歳大海)名物。唐物大海茶入。
織田信長の所持であったが本能寺において焼失しました。
東京国立博物館蔵の銘万歳大海というものとは別のものです。
(『茶道名物考』)

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