朝鮮慶尚南道釜山の和館にあった対馬宗家の陶窯で、釜山窯の作品と呼ばれるものには当初の和館以外でつくられたものをも含みます。
和館はもと近年の草梁駅(釜山駅より約四キロ)の近くにありましたが、1678年(延宝六)7月釜山竜頭山の近辺に移りました。
【沿革】初め将軍家は宗家を通じて朝鮮から茶碗を求めましたが、意にかなうものが少なく、そのため見本をつくってさらに朝鮮に注文しました。
古田織部好みの御所丸茶碗などがその一つであります。
これは文禄・慶長の役(1592-8)ののち国交が回復した直後のことで、これはまた釜山窯の端緒ともなりました。
次いで1639年(寛永一六)将軍家光の命によって宗義成はさらに見本による製作を釜山東莱府に依頼し、東莱府は礼曹の許可を得て巡察使に命じ河東・晋州の土と陶工を召し、和館外に窯を設けてこれを焼成しました。
翌1640年に再び焼造を依頼交渉し、その結果1641年に焼成されました。
1644年(正保元)対馬から橋倉忠助を熔師として派遣し、初めて和館内に窯を築いました。
以来熔師の派遣は恒例となりました。
対馬の『朝鮮方日記』に記載された派遣熔師は以下の通りであります。
1647年(正保四)渡辺伝次郎、1650年(慶安三)大浦林斎(古九谷の後藤才次郎がこの時林斎に同行したといわれる)、1651年渡辺伝治、1654年(承応三)古賀判太夫と蔵田弥三右衛門、1655年宮川道安、1662年(寛文二)中山意三、1663年船橋玄悦、1665年(同五)阿比留茂三、1669年(同九)青木善右衛門と阿比留茂山、1672年(同一二)中庭茂山(阿比留改姓)、1676年(延宝四)中庭茂山・波多野重右衛門・長留藤左衛門・国分知斎、1678年(同六)中庭茂山・青木善右衛門。
1681年(同九)中庭茂山・大江武左衛門・松村軍右衛門・長留藤左衛門・藤川茂兵衛、1685年(貞享二)中庭茂山・宮川道二・藤川茂兵衛。
1687年(同四)宮川道二・藤川茂兵衛、1690年(元禄三)松村弥平太、1693年(同六)長留藤左衛門、1695年(同八)・1698年(同一二)1702年(同一五)松村弥平太、1713年(正徳三)宮川道二、1717年(享保二)平山意春らであります。
もとより以上は主任熔師で、それぞれ陶工・画工・彫刻師など多数の工人を同行しました。
釜山窯は平山意春を最後に1717年ついに中止されました。
継続すること七十余年間。
初めは宗家が徳川幕府の命により朝鮮政府に依頼し、和館外でっくり、のちには対馬から主任熔師と陶工を派遣し、朝鮮陶工をも雇い和館熔造所で焼造しました。
しかし朝鮮政府からすればまったく条約にもないことで、陶土や燃料の供給は多大の負担であるようで、次第にその交渉を厄介視して、享保(1716-36)初年ついに陶土の供給は絶たれ、廃窯せざるをえなくなりました。
「製品」文禄・慶長の役前後に渡来し、茶人たちによって分類命名された高麗茶碗は、多種多様にわたりますが、その後見本を指示して、わが国の意匠によってつくられた釜山窯関係の作品も、同様に高麗茶碗として朝鮮製のものに混入しています。
種類は非常に多いようです。
1)呉器釜山窯ができた後も大徳寺と宗家との関係によって元禄(1688-1704)までしばしば渡来しました。
2)御所丸織部高麗ともいい、国交回復後御所丸船に見本を託して焼かせたものです。
2)彫三島釜山窯前後に注文して焼かせました。
土は釜山近辺のもので、手法は朝鮮在来のものとは異なります。
4)刷毛伊羅保寛永(1624-44)前後のものです。
深手・浅手いろいろあります。
5)半使(判司)茶碗判司とは釜山東莱府の官吏・訳官・訓導らの尊称。
この茶碗は将軍家の見本によって朝鮮工人が訳官の監督下につくったもので、まったく朝鮮式で、種類も多いようです。
6)御本茶碗御本とは将軍の御手本という意味。
種類が多く、立鶴の図は家光の下絵と伝えられます。
砂手御本・御本に分類されます。
7)絵御本茶碗御本茶碗に鉄または呉須で絵を描いたものです。
初期の製品には稚拙の趣かおり、のちには狩野常信が来て絵付したといいます。
5)釜山窯染付釜山窯の染付は茂山の時代のもので、1676年(延宝四)には五人の画工が派遣されました。
二種あるようで、一つは李朝初期の染付向きのもの、一つは河東の土を入れたざらざらの面に絵付した染付。
9)今渡り井戸遠州時代に渡来した釜山外窯の作品。
10)今渡り雲鶴後雲鶴ともいい、御本手に雲鶴の象嵌を施したものです。
11)片身変り片面ずつ別々の釉を掛けたものです。
12)御蔵御本釜山窯休止後宗家の蔵から出されたものです。
以上に通じていえることは、半使時代のものには自然の力と味があるようで、織部時代(玄悦以前)には轍輪外の形に興味がもたれ、かつ戦国の気風を残した大振りの堂々たる器が喜ばれました。
遠州時代(玄悦以後)には、すっきりした作行を好み、全般に薄手で高台なども整えられたものがよいとされました。
全時期を通じて、陶工達のうちでは林斎・玄悦・茂山・弥平太らがすぐれた技能をもっていました。
次に宗家が釜山窯用として朝鮮政府に請求した陶土は毎年数百石という莫大な量にのぼりましたが、これは釜山窯だけではなく、御馳走土と称して対馬に送られたといいます。
製品に及ぼす各地の原土の特徴を付記しますと、
1)河東の土高火度の良白土で、素地に用いた場合熔解しないのでざんぐりした味を出します。
砂手御本・茂山の白などの器はこの土。
2)晋州の白土河東の土よりやや火度が弱いですけれど、素地に潤いがあるようで、薬土に用いて柔らかみがあります。
胎・釉とも土の器は白高麗に近いです。
3)慶州の白土御所丸向きあるいは高麗堅手などの素地に用いますが、火度が低く張く焼け締まる。
4)蔚山の白土薬土に用いることが多く、青磁釉に適し、御本・青磁・三島・刷毛目などの釉に供します。
5)金海の柿色土赤紺土ともいいます。
焼成すると青味あるいは赤味を発します。
これに蔚山の薬土を施せばいわゆる青味をおびた金海となります。
この土を素地にして象嵌ものをつくることが多いようです。
6)釜山近辺の赤土これを素地として青磁を焼くと胎に小孔を生じ、その周囲が酸化してほんのりと赤くなります。
特に御本・半使に出たものを喜び、ついにはこの斑紋を「御本」と呼ぶようになりました。
7)金海の兌土朝鮮南蛮といわれるものに用います。
(『釜山窯卜対州窯』)