銘款には刻捺の印影以外に書き銘・箆銘などがあります。
発達史的に考えれば、窯式がやや進み共同焼成の行われる頃よりその必要が起こったものと思われます。
すなわち多人数の作品が同一窯に入れられる際、その混同を避け、識別を容易にかつ確実にすることを目的として用いられるようになったものであるでしょう。
しかし銘印が一度現れるとこれを便宜として自分の好みの工人を求める者もありますので、上述の目的以外に、窯印のあるところすなわち作家の個性があるところという考えが起こりました。
画家の落款とその意義を同じくすると考えられます。
わが国で陶器の銘印の起こったのはおそらく室町時代末期で、信長が1563年(永禄六)に選んだ瀬戸六作における加藤宗右衛門春永の鍵印、加藤長十の松葉印などが比較的初期の窯印であるでしょう。
しかし銘印の発達は京窯以後に見るべきで、京窯の祖である仁清などは堂々たる銘印を用いました。
銘印の内容は、江戸時代においてこれをみれば、第一は窯または都邑の名・作家の名などを現すもので、二字・三字のものもあるようで、一字のものが最も多いようです。
第二は祥瑞の文字または形を表すもので、九谷・伊万里の「福」字、万古の「万古不易」、上野の「高」、相馬の「相馬」に伴う巴形などはその例であります。
第三に、およそ陶磁はある保護者の下に立つ場合が多いため、その保護者より贈られた印の例が少なくないようです。
書体は篆・隷・楷・行・草書どれが多いかといえば、普通の印章と同じく篆・楷書で、輪郭が有るのも無いのもあります。
時に道八の法螺員や、吉向の亀甲のように複雑な形の中に瘤めたものもあります。
陶人または窯に応じて趣味・気品のある銘印を用いたのは画家の場合と同じで、押し方にも癖があるようで、高台の左方、香合は蓋裏、急須の類はおおむね手の下面に押します。
印の使用は多くは一個でありますが、「むしあけ」「真葛」のように連用する場合もあります。
万古では数十個の銘印を急須の全面に押すなど、印を装飾に用いたものもあります。
印材は金銀をはじめ銅・鉄・石・青銅など千差万別で、土に押し付ける時の関係からみれば、黄楊などの木材が最も離れやすくて便利であるといわれます。
銘印の発達は東洋ではわが国を第一とし、中国は少なく、朝鮮に至ってはほとんど見ないといいます。
この原因を日本人の個性・自我の観念に求める者がいるか、要するにわが国においては藩あるいは地方の富豪・都の個人作家などが各自小さな窯を所有してそれぞれ特色ある作品をつくりましたが、中国では大量生産の窯が点々とあるのみで、ことに明以後の官窯の発達はほとんど一国の製器を一窯に委ねるような事情となり、大明の万暦とか、大清の乾隆とか、その産地よりもむしろ製作年代を明らかにしようと考えたことが指摘されましょう。
以上脇本楽之軒の所説に従りました。
中国陶磁の銘款については「款識」の項参照。
※かんし