京都の陶工。
仁清・乾山と並んでわが国三大名工の一人と称されます。
姓は青木、幼名八十八、のち父の名を襲って佐兵衛と改名。
通称木屋佐兵衛、一説に木舎佐平、または左兵衛・左平。
字は青来。
木米・聾米・九々麟・百六散大・古器観・停雲楼などの号があります。
「伝記」1767年(明和四)京都に生まれました。
その祖先は美濃国(岐阜県)に発します。
父佐兵衛は初め尾張国(愛知県)にいましたが、のち事情があって京都祇園新地縄手町に移り木屋と称して茶屋を業としました。
幼少の頃木米は著名な篆刻家でまた書画をよくした高芙蓉(1784、天明四年、六十三歳で没、当時木米十八歳)に従い、多くの影響を受けました。
のち古銭に興味を寄せ自らこれを鋳造しました。
しかし当時関西きっての文人と称された木村蔓薩堂を大阪に訪ね、その新刊『龍威秘書』に所収されている中国清朝の人朱笠亭の著『陶説』を一見して初めて陶器を一生の事業とする志を固めました。
陶器の道に入ったのは木米が三十歳の時であります。
陶法の師は田能村竹田の記事によれば頴川であります。
『雲林院家系』によれば十一代文造(宝山)も木米の師であるらしいです。
概していえば、木米は頴川からは磁を、文造からは陶を学んだのではありますまいか。
木米の天才は数年で現れ高名は京阪に広まりました。
そして1801年(享和元)に紀州侯徳川治宝がその名声を聞いて彼を和歌山に招聘しました。
ちょうどこの年に瑞芝焼が創起されたので木米はその窯に従ったものでしょうか。
この時停雲楼の銀印を賜ったというが異説もあります。
すなわち栗田聾米の印であるとしたり、また古器観蔵(この印は後年加賀前田侯より賜ったものというのが通説)の印であるともいいます。
1805年(文化二)青蓮院宮粟田御所御用窯を命ぜられました。
1806年8月亀田鶴山の勧めで加賀国金沢に赴き卯辰山で試焼シー旦帰京、1807年再び同地に至って春日山窯を起こしました。
翌年冬に事情があって窯を捨てて帰京、以後京都にあってもっぱら製陶に従事しました。
1833年(天保四)5月15日没、六十七歳。
木米は生まれつき多能で陶をもっぱら行いましたが、また画においてモー家の風格がありました。
山陽・竹田・小竹・椋隠・元瑞・雲華ら時の文人・雅客と交際しました。
漢学も相当なもので単なる陶工とは違りました。
小竹の撰になる墓碑銘にも識字陶工木米の文字を加えています。
また事に当たっては苦心悍精いやしくも息まず、中年聾となったのもあるいは焼窯の際耳を窯に当てて入候をはかったためといわれ、また釉料分類函・土型・日記(現存しません)・手録・古器観と称する図録などの遺品によってもそのいかに熱心精密に資料を探索し整理し記録したかをうかがうことができます。
特に逸することのできないのは『陶説』の翻刻であります。
『陶説』は木米を陶業に入らせた書であって永く木米の陶事の規準でありました。
自費テー本を買い求め1804年(文化元)に翻刻しました。
しかしのちにこの刻が誤りの多いのに気付き訂正するつもりでありましたが、改訂事業の成就を待たずに没しました。
この書は木米没後の1835年(天保六)に子周吉の手によって公刊されました。
板木になって三十一年であります。
1827年(文政一〇)頼山陽の序文があります。
「作品」木米は当時の文人社会からの雰囲気により、陶事については概して中国磁器の模倣ニー生を捧げたと評することができ、陶器はほとんど顧みられなかったようであります。
品種は当時流行の煎茶器の製作を主位としています。
種類別にこれを概説しますと、1)南蛮写し木米の作中最も得意なものノーつで、急須が非常に多いようです。
形は売茶形というもので、手を釉にして立てれば倒れることなく安全に立ちます。
作行は轆轤が快く廻り、箆に無駄がなく、土は心地よく締まっています。
2)焼〆急須で型物が多く、その形は上部八角形、腰以下はたいてい円い形であります。
ただし型物なので贋物が非常に多いようです。
3)交趾写し同じ型物であるが急須だけでなく煎茶碗・香合その他種々のものがあります。
形態も種々であって非常に変化に富みます。
木米の交趾写しは由来永楽保全と並称されるところでありますが、木米はその釉などの関係ではるかに古色があります。
保全の紫に対し黄に異彩を放っています。
交趾の急須で最も多いのは荒磯であります。
4)染め付け木米の白磁青花は京都の地における第一先達のものであって、1821年(文政四)の道八の染め付け創製以前に春日山窯などですでにこれを試みたとも伝えられます。
香合・茶巾筒・湯呑み・盃・葉茶壺・急須・煎茶碗などの品種があります。
木米ハー方画技で世に知られ、染め付けに付けた着画は軽妙細緻・放胆自在であって、名状し難い気品を有しています。
なおのちの瀬戸陶工川本治兵衛の染め付けは木米作に最も似てしばしば木米の印落としヽて取り扱われることがあるといいます。
5)青磁多く七官風の強い感じのものでありますが、他に大形手もあるようで、手取りは重く非常に良作であります。
青磁には特に無印のものが多いようであります。
6)赤絵作品は多くないようです。
頴川風のもの・百子手・百老手などがあります。
とりわけ煎茶碗に磐紅で茶詩を書いたものなどが最も称されます。
7)朝鮮写し三島手・御本写しなどであるが数は少ないようです。
8)金欄手少ないようです。
赤釉層が極めて薄いが色濃く見え気品があります。
9)仁清写し少ないようです。
技は巧みですが、かえって唐物臭さがします。
10)砂器白泥の風炉などで非常にすぐれた作品があります。
風門に梅月を逆彫りした梅月炉が多いようです。
三つの爪ノーつを特に幅広くしていること、網穴の上部が次第にすぼまっていることが木米作風炉の特徴であります。
他に宋胡録・オランダ写しなどがあるがいずれも遺品はまれであります。
なお木米の急須について概していえば、その摘まみ・口造り・把手の巧妙なことで、見る者に全体に生命があるように感じさせる点であります。
木米所用の銘は別掲の通りでありますが、なお「春日山窯」所製の器の銘についてはその項参照。
また木米の子周吉は1843年(天保一四)十八歳で夭折し、外孫小米は明治中頃に没しました。
『上奥殿侯書』は、1820年(文政三)に木米がその筆写にかかる『陶説』に添えて三河国奥殿(愛知県岡崎市奥殿町)の松平乗羨に差し上げた書で、木米の自叙伝であると同時に陶磁論でもあります。
なお本項はおおむね脇本楽之軒の『平安名陶伝』によります。
※かすがやまがま