中国清朝の甕器。
近代最も重視される品であります。
一般に郎窯というものはたいてい明代の祭紅の宝石釉というものであるようで、必ずしも郎製のみを指さないようです。
郎は郎廷極のことで康煕年代(1662~1722)に甕業を監督した官人でありますが、肆人がこれを誤って郎世寧となしました。
世寧はフランス人で画をよくし雍正・乾隆の間(1723~95)内廷に供奉した人で、造甕を監督したことはなかりました。
郎廷極は官は江西巡検に至り、その製甕の事実は『景徳鎮陶録』『茶余客話』などの書中にしきりにみえます。
このことから廷極が世寧でないことは明白であります。
この種の製品は深紅の宝石釉を主体とします。
明代宣徳(1426~35)・万暦(1573~1620)に始まり、清初になってその倣造をしました。
今のいわゆる郎窯というものは明・清を混同しています。
しかしこの誤伝はすでニー般化しており大勢に従うべきであるでしょう。
今俗に分別するところでは、深紅宝石釉の器をおおむね郎窯と呼び、紅色琉璃釉・橘皮釉の器をおおむね積紅と呼びます。
積紅には款識があるが郎窯にはないといいます。
郎窯の製品のうちに前後の別があります。
およそ内外にみな開片があって底足に燈草旋文があるようで、その色が深紅牛血の凝ったようなものは前製のもので、後製のものにはわずかながら違いがあります。
前製のものは底がわずかに黄色で、いわゆる米湯底というもので、後製のものは口底が豆青色あるいは鎖果青をしており、いわゆる蹟果底というものであります。
前製は釉色深紅、後製は釉色鮮紅で、ただ釉がいくぶん透亮であるようで、窯変の肉色と違っているだけであります。
またいわゆる緑郎窯というものがあるようで、その深緑葱色は麗しく愛すべきもので、満身に細砕の紋片がありますが、これは実は明代に浙江省竜泉の章生二の弟窯に倣ったものであります。
雍正・乾隆時代にも倣製があります。
思うに郎窯はわが国のいわゆる辰砂手であるようで、明の宣徳に始まり清の康煕に至って郎廷極がこれを倣造しましたが、これら明の祭紅をもすべて郎窯と称するようになりました。
またフランス人によって、サンドフープ(牛血紅の義)としてヨーロッパに紹介されて非常に喜ばれました。
元来銅の還元焼成によって呈する色でありますが、偶然に酸化焔のためア。
プルグリーン(蹟果緑)となり、あるいは紫・黒・白などの窯変もあります。
紅色のうち桃花片はヒーチブルームの名でアメリカ人に非常に喜ぱれ、小豆色には虹豆紅があるようで、そのほか火焔青・火裏紅・茄皮紫・宝石藍などの形容があります。
(『景徳鎮陶録』『匋雅』『飲流斎説甕』『支那骨董詳説』『匋雅集』)