茶の湯の大成者。1522年(大永二)生まれ。
本姓田中、祖父の名をとって千を氏としました。
初名与四郎、のち宗易と称し、拠笙斎と号しました。
道号利休は大徳寺の古渓宗陳から授けられたものです。
また聚楽利休屋敷の茶席を不審庵と号しました。
遠祖は安房国(千葉県)里見氏。
祖父千阿弥は将軍足利義政の同朋。
父与兵衛の時千を姓とし、和泉国(大阪府)堺で魚問屋を営み、富を積んで納屋衆の一員となりました。
利休は早くから茶を好み十六歳ですでに松屋久政を招いています。
初伝は北向道陳であったと伝えられます。
1540年(天文九)十九歳から武野紹鴎に就き、時に剃髪して参禅の師笑嶺宗訴から宗易の名を与えられました。
以来もっぱら紹鴎に親しみ、村田珠光の茶の源流を探り、珠光名物その他の研究・鑑識・収集に努め、また京都や堺・奈良の茶会に出席していたことは当時の諸茶会記で知られます。
利休が初めて新興の権力者織田信長と交渉をもったのは堺であって、元亀元年(1570)4月2日の『今井宗久日記抜書』によれば「当津有之名器共信長様御覧アルヘキトテ松井友閑老ヲ以テ触ラレ……御前二テ宗易手前ニテ薄茶玉ハリ」とみえ、1574年(天正二)3月には供奉して東大寺の正倉院御物を拝見、名香蘭奢待の一片をいただき、翌年10月京都妙覚寺の信長の会でも点茶し、宗久・宗及と共に信長の茶頭となり、やがて利休の方がその上首を占めるようになりました。
1582年(同一〇)6月信長が本能寺で横死のあとは豊臣秀吉に近づき、明智光秀討滅後秀吉の命により山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の妙喜庵に二畳台目の茶席待庵をつくり、これより秀吉の茶頭として名実ともに天下の宗匠の名を確立しました。
1583年大阪城が築かれると山里の数寄屋や本丸の黄金の茶室を管理しました。
1585年(同一三)10月7日秀吉の禁中小御所献茶会の際、特に利休という居士号を得て正親町天皇への御献茶に奉仕しました。
また1587年(同一五)10月1日の北野大茶湯会の墨打ちと経営に参加し、秀吉・宗久・宗及の四人で茶頭役を務めました。
1590年(同一八)秀吉の小田原征伐に同行して陣中茶会を興行するなど、知行三千石を賜り常に秀吉に召置かれた当代の茶湯者八人(宗易・宗久・宗及・宗二・宗甫・宗無・宗安・紹安)の筆頭として最も推重されていましたが、1591年2月13日大徳寺山門に載せた木像事件その他で罪を得て堺に追放され、15日間自宅に塾居し、26日上京の命を受け、上杉景勝の兵三千の囲む中で同28日切腹して果てました。
辞世の歌「提ル我得具足のI太刀今此時ぞ天に拠」、享年七十歳でありました。
利休は茶の湯を通じて秀吉の内事に関係し、「内々之儀者宗易公儀之事は宰相(秀長)存候」とか「宗易ならでは関白様ヘー言も申上る人無之」と噂され、その死因についてはあるいは他に政治的要因があるのではないかといわれています。
利休の弟子には藪内紹智・里村紹巴・野村宗覚・久田刑部・山岡宗無・万代屋宗安・平野道桂・山上宗二・木下勝俊・上田宗箇・南坊宗啓らかおり、世に利休七哲と称せられるものには蒲生氏郷・瀬田掃部・細川三斎・高山右近・牧村兵部・芝山監物・古田織部がおります。
また実子に道安(紹安)、養子に少庵がおります。
孫宗旦は少庵の子。のち父祖の茶を継いで代々千家流として繁栄しました。
なお楽家の先祖に擬される田中宗慶は、利休から田中姓を与えられたともいいますが、必ずしも詳かではないようです。
また利休の所持した名物を「利休名物」といい、長次郎作利休楽焼七種茶碗も有名であります。
「利休の茶」利休をもって茶の湯の大成者とすることは万人の認めるところで、珠光の開山、紹鴎の中興に次いで茶法とその理念の純化・深化に努め、後世いかなる分流流派の宗匠も等しく利休をもって茶聖開祖と仰ぐのであります。
利休ももともとは堺の大商人の一入としての唐物道具の茶でありましたが、紹鴎からさかのぼって珠光の佗び茶精神に触れ、さらにこれを深め、家隆の歌「花をのみ待らん人に山里の雪間の草の春を見せばや」をもって茶の湯の深意とし、「真ノ台子ヲ不知シテ八行ノ風呂モ成ガタシ草ノイロリモ成ベカラズ」(野村宗覚宛伝書)といって草庵茶をもって道の至極とし、その茶室も四畳半から三畳・二畳半やがてはこれを一畳半までに縮小し、山上宗ニをして「宗易ハ京ニテー畳半ヲ始テ作ラレタリ、当時ハ珍敷ケレトモ是平人ハ無用也い崇易八名人ナレハ山ヲ谷西ヲ東卜茶湯ノ法ヲ破」といわしめています。
このように利休は万事を圧縮収束することによってより広大な茶の湯の精神世界を期待したもので、それは利休が創意しまたは採用した薄茶・運び茶本意の今焼楽茶碗、竹花入、板風炉、釣瓶水指、面桶水こぼし、ニジリ口、下地窓、一尺四寸炉、四尺三寸洞床、丸卓、四方棚、大小蚕、中節茶杓、旅箪笥、阿弥陀堂釜、紙表具などの好みによっても知られ、しかも当時この利休流が一世を風脚したことは『僊林』の「当世の茶湯とハ宗易と云数寄者むかしのくときことを徐、手まへかるく手数すくなくかんなる所を本とす、茶わんにてもこきうすきの替をかんようにたてつれハなり……道具ヲはこふ事ミな佗数寄の仕舞也」の記事、または『長闇堂記』にみえる「宗易ハ秀吉公の御師にしてしかもその才智世にすくれたる人なれば、天下おしなへ此下知をまなはすと云事なし、後は利休居士と申せし、さる程に昔の名物とも皆おしこみすたり茶湯あらたまり……万事手かるくさひたるを本とせらる也、世間のわひに心をつけ、叉道具もたても遍く茶湯のなるへき事をしめして道におもむかせんためとも云也」の一文でも知られます。
利休のこの「収束」を時代性に合わせて「開放」しようとしたのがその弟子古田織部でありました。
しかしこの織部にしてもあとの小堀遠州にしても、茶の基本は常に利休であることを再三明言しているのであります。