朝鮮李朝時代の陶磁器。
新羅時代・高麗時代のものと分別していうのでありますが、李朝は中国では明初から清末まで、わが国では南北朝時代より明治初期に至る間に当たり、その間実に五百有余年の歴史を包有するものであるから陶磁器にも種々の変遷発達があるようで、これを一括した概念をつくることは非常に困難であります。
わが国の陶磁器発達史を顧みますと、李朝建国二百年にしてわが国ではようやく陶業界が秩序立ってきたところであるようで、その李朝の陶業より伝来影響したところの多いことはいうまでもないようです。
またわが国に茶道が盛んになると朝鮮産陶磁器が多く要求され、李朝の陶磁器は高麗ものの名の下にわが国に非常に多く入って来ています。
李朝陶磁の変遷は左の四期に分けます。
1)李朝初期三島全盛時代(百年間)、2)李朝中期堅手白磁時代(百五十年間)、3)李朝後期染め付け全盛時代(二百年間)、4)李朝末期(五十年間)。
[初期]高麗青磁の伝統が残存するとはいえ三島手の陶技が最も盛んに行われ、また堅手の白磁が初めて現われました。
従来三島手は高麗時代の製品とされていたようでありますが、発掘その他実際に考察すると、高麗時代の象嵌式の技法は李朝時代に最も発達し、今日でいうような三島手を完成させました。
【中期】前期の三島手が次第に衰え、代わって堅手の白磁が最盛となり、また染め付けの端初を見ます。
堅手の白磁は青味を帯びた磁器質のもので、この期において盛んに焼かれソウル付近の窯跡にも多くの破片を見ます。
元来白磁は高麗時代にすでに焼成の形跡があって、少量ながら釉薬はガラス質で火度も相当高く素地も透明質で、わが国ではこれを高麗白磁という(ただしわが国で白高麗と呼ばれる乳白色薄手の磁器は朝鮮産ではなく、大部分は中国産のものである)。
ところが李朝になると高麗白磁の手は灰分のためかやや硬感のあるものとなります。
そして鉄砂および辰砂でこれに文様を描きましたが、その巧妙さは比類のない程であります。
ところがこの期に壬辰・丁酉の乱(文禄・慶長の役。
1592-8)があるようで、朝鮮は大いに荒廃し陶工の多くもわが国に渡来したためこの期の遺品はかえってわが国に多く伝わっています。
「後期」染め付けの全盛時代で、堅手の白磁は器質に変化があり少し衰えます。
そして壬辰・丁酉の乱の疲弊は窯業にも著しく現れ、また工人が佳器をつくると官吏が無報酬でこれを没収するというような事情があったために自然黒物の製造に移り、さらにこの時代になって茶碗は多く真鐘製のものを用いる習慣となったなどの理由で、製陶業は順当な発達を遂げず量も大いに減少しました。
そして前期に比べわが国との関係も非常に少なくなり、わが国に渡来したものも前期のように多くはないようです。
しかし本期における染め付けの製品は実に驚くべきものがあります。
元来染め付けは中国の影響を受けて李朝初期より試みられたようでありますが、一時中絶し、真に李朝らしいものができたのは明の万暦(1573-1620)以後、壬辰・丁酉の乱以来のことであります。
主として壺・徳利・文房具類を焼いました。
壺および文房具はこの時代固有のもので誠に賛嘆に価するものがあります。
三島または鉄砂と相違し、外への力は内へ内へと充実して特殊な時代的背景を感じさせます。
一般に司甕院分院窯は染め付けの本場で、呉須の用法が巧妙で、描画も非常にすぐれています。
特に小烏・魚・牡丹などを好んで描いました。
削り・透かし彫りなどの形態上の技巧もまたさまざまで、文房具類の筆立て・水滴などの種類は最も多様であります。
次に染め付け以外の白磁は、初期の透鋭、中期の硬堅に比べこの期のものは柔らかい厚みがあるようで、見る者に温厚で静寂の感をいだかせます。
【末期】李朝末期五十年間を指しますが、この期は朝鮮の事情が内外ともに多事であって、窯業も前期二百年のように純粋でなく非常に衰退し、文字通り末期的現象を呈しています。
大院君摂政後は経費の関係で分院窯にすら原土を運送することができず、一時窯を中止するのやむなきに至りました。
1895年(明治二八)頃には有田焼の工人などを招いて石膏型製作法、コバルト使用法などを伝受しましたが、すべて李朝陶磁の伝統は影をひそめるに至りました。
(『李朝陶器の価値及び変遷に就て』)