越中瀬戸 えっちゅうせと

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鶴田 純久の章 お話

越中国新川郡瀬戸村(富山県中新川郡立山町)の古陶。
古文書によれば1593年(文禄二)4月前田利長は陶工彦右衛門を招き尾張瀬戸焼に類似した土を国内で見立てさせました。
1598年(慶長三)7月孫市もまた国内で土石を捜索し、1600年(同五)7月新川郡芦見(立山町芦見)のあたりに窯を築いました。
これが越中陶業の開創で芦見の地は瀬戸村というようになりました。
別に小二郎という者が1600、一年(同五、六)の頃上末村(立山町上末)に住み陶器を焼き、さらに1621年(元和七)尾張から陶工長八が来て従業しました。
そして彦右衛門窯の地を上瀬戸、孫市窯の地を下瀬戸、長八窯の地を中瀬戸といい、1640年(寛永一七)孫市の次男が分家して新窯を築いた地を新瀬戸といきました。
全盛時代は寛永年中(1624-44)から安政(1854-60)に至る二百三十余年間で、その間藩から陶窯業権、永代年貢御免などの保護を受け、他で瀬戸物を製する者がある時は大挙してその窯を破壊したと伝えられています。
したがって良工が輩出し、釉薬・焼成法の研究が盛んとなり、遺物の白磁・青磁、黄灰色・淡紫色・褐紫色・黒褐色などの器に当時の状況がうかがえます。
しかし明治の変革の時に藩侯の保護を失ったため、廃業する者や百数十年前加賀金沢城の本丸の瓦を焼いた経験から瓦業に転向する者が続出、1916年(大正五)和三郎窯を最後としてまったく陶窯は絶えました。
なお現在発見されている代表的な窯跡は上瀬戸十一ヵ所、下瀬戸十四″所の多数に及んでいます。
(『加賀越中陶磁考草』『越中瀬戸焼陶窯に就て』)

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