魁翠園焼 かいすいえんやき

Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

江戸角筈(新宿区)にあった美濃国(岐阜県)高須藩主松平義建の下屋敷において焼かれたものです。
1851年(嘉永四)4月、瀬戸の陶工川本友四郎(貞二)が初めて招聘されてこの御庭窯に従事しました。
その製は瀬戸風の染付磁器で、人物などの種種の小置物や根付などでありますが、また他に万古風の陶器および楽焼をも出しました。
また義建の命により四谷上屋敷の水道用として真焼土管を製出したことがあります。
これか土管を製作した最初であるといいます。
銘は所掲のように種々ありますが、角形の魁翠園製とあるものが多く、円形に草書体で魁としてあるものは楽焼茶碗に用いられたようであります。
また義建自らの手製には単に魁翠園製と印していますが、川本貞二の作には魁翠園製の下に「貞二」の印を加えています。
廃窯の時期は詳かでないが、『芳潤堂日記』には1862年(文久二)2月までこの窯に関する記事があります。
今日遺品はまことにまれであります。
なお従来の通説には、魁翠園焼は松平氏の居城である美濃国石津郡高須(岐阜県海津市海津町高須)において焼かれたとある、これは誤説であり、角筈以外に窯を設けたことはないようです。
また主工の川本貞二が、この窯に瀬戸の原料を移入したため尾張藩に咎められ、ついに禁固の刑に処せられて、1855年(安政二)に獄中で没したとする説がありますが、『芳潤堂日記』によれば1859年(安政六)当時に至っても貞二は依然として従業していますので、この説もまた信じ難いです。
(『陶器類集』『岐阜県産業史』『日本近世窯業史』『陶磁』七ノ四)※たかすがま

前に戻る
Facebook
Twitter
Email