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鶴田 純久の章 お話

永楽の十二代保全の養子西村宗三郎。
京都の漆工佐野長寛の次男。
1851年(嘉永四)に十八歳で保全の養子となり善次郎と称し、次いで宗三郎と改めました。
のち保全は紅釉の研究に没頭し実子和全と合わなくなりますと、宗三郎を深く気に入り、そのあとを宗三郎に嗣がそうと内心思っていました。
宗三郎もまたひそかにその意があって回全と号しました。
しかし1854年(嘉永七)保全が重病におちいり和全との和解が成りますと、宗三郎は別に一家を立てることとなり回全の号を廃しました。
彼は和全・得全を補佐して功績は大きいです。
慶応年中(1865-8)和全と共に加賀国(石川県)山代窯に赴き数年間をここに留まり、九谷製陶の革新に貢献したといいます。
しかしその作品は保全・和全の名に隠れて知る人は少ないようです。
1876年(明治九)大阪で没、四十三歳。
(『陶器類集』『九谷陶磁史』『陶磁』三)

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