文化年間(1804-18)加賀国河北郡山ノ上村春日山(石川県金沢市春日町)にあったものです。
青木木米の開創。
当時加賀国においては磁器の製造がなく年々多額の磁器購入金が流出していました。
そこで1806年(文化三)金沢町会所の決議で町年寄亀田純蔵を通じて京都の名工木米を招いました。
木米は同年9月に来訪し卯辰山の瓦焼平兵衛の窯を借りて試焼し、意にかなう結果が得られたのでいったん帰京し、翌年4月助工本多貞吉を伴って永住の計画で再び金沢にやって来ました。
そして宮竹屋喜左衛門・松田平四郎両人の経営の下に春日山春日神社の近傍に窯を開いました。
ところがその11月初窯を焼成したところ湿気のため結果が十分でなく、その後三、四回窯揚げをしたのちいまだ事業の初歩のうちなのに翌年木米は帰洛してしまいました。
いかなる理由からであったのかその理由をいろいろと推測して、木米の待遇不満足、あるいは1807年(文化四)の金沢城炎上による諸事倹約の結果の解職、または叔父直次郎の死による退職などの説がたてられています。
当時の製品は青磁・赤絵南京・宋胡録・南蛮・高麗・仁清などを写し、また木米の創作の品もありました。
木米の去ったあとは松田平四郎の経営下に本多貞吉・越中屋兵吉・任田屋徳左衛門らが従事し、木米に習った赤絵南京・宋胡録風のものを出しました。
しかし1811年(同八)本多貞吉が若杉窯に去った後ははなはだしく衰微し、文政(1818-30)の初年廃窯せざるをえなくなりました。
しかしこの窯のことがあって以来陶窯が加賀の四郡に続いて起こりました。
木米の功績というべきであるでしょう。
木米時代の印款は、刻印では「金府」「木米」、釘彫りでは「金城帝慶山」「金城春日山製」「金府」、書印では「金府新製」「金城製」「金城文化年製」「金城」などがあります。
また瓦焼平兵衛の窯において試焼した際、平兵衛が余技的製陶に用いた印「金城東山」をそのまま使用したといいます。
さらに木米が去った後に本多貞吉らによって用いられたものは「金城文化年製」「金城製」「春日山」などの書款であります。
また窯主松田平四郎もこの間余技的に朝鮮写しの抹茶碗などをつくって、その雅号「馬宋」の刻印を用いました。
(『加賀越中陶磁考草』『平安名陶伝』『九谷陶磁史』)