加田半六 かだはんろく

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鶴田 純久の章 お話

出雲国(島根県)楽山焼の陶家。
倉崎権兵衛の門弟で萩から随従しました。
1694年(元禄七)権兵衛が没しその子権斎も幼少のため製陶を廃しましたので、楽山焼二代の業を継いでいます。
家声を落とさず上手の名がありました。
1709年(宝永六)没。
二代半六はその子で楽山焼三代目となりました。
1743年(寛保三)没。
三代半六すなわち楽山焼四代目は庸工で、下手半六の名がありました。
その弟に小三郎かおりいくらか器量がありましたので、当時の御立山奉行小田熊右衛門は小三郎に窯を譲るように半六に指図しましたが、半六は従わずついに御焼き物師を免じられ暇を出されました。
1777年(安永六)没。
楽山焼はこれより土屋善四郎を経て長岡住右衛門に継承されました。
なお三代の子に半六かおり、四代を称しました。
天明・寛政(1781-1801)の間に時の藩主松平不昧より再び扶持を給わり、布志名(松江市玉湯町)の長岡住右衛門に弟子入りすることを命じられましたが、生涯庸工として1796年(寛攷八)3月没。
なお加田家の過去帳によると五代加田半六は1817年(文化一四)没とあります。
(『本朝陶器攷証』『出雲陶窯』)※らくざんやき

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