瀬戸の陶工。
幕末より明治期の人。
1858年(安政五)五代川本半助の養子となり義弟六三郎を育成し、1864年(文久四)分家しました。
常に製磁の拡張と改良を図り、1854年(安政元)すでに西洋風の器を製し輸出磁器製作の先駆をなしました。
1876年(明治九)青花磁の額面を製してパリ博覧会に出品したところ、その作がはなはだ巧妙でしたので、当地の製造家がこれを磁器ではないと疑って破砕し真偽を確かめたといいます。
1885年(同一八)五代川本半助の次男作太郎を迎えて養子となし、自らは退隠して奇陶軒桝山と号しました。
作太郎は第二代を継ぎ桝吉と改め奇陶軒と号しました。
また改良磁器製造家として有名でありました。
器に奇陶軒桝吉製の六字を書きます。
(『をはりの花』)