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鶴田 純久の章 お話

瓦を焼く窯。
生瓦を並べておく焼成部、薪を燃やす燃焼部、その焚き口部、煙出部の四部分から成ります。
古代わが国で用いられた瓦窯の基本形式は客窯と平窯とてあって。
いずれも還元焔で焼かれました。
焼成の温度は千度から千三百度という推定があり、燃料には楢・楳などの落葉樹と松・樫が多く使われました。
害窯というのは、丘陵の斜面を利用して地下に幅T五メートル前後、高さIメートル余り、長さ七~10メートル位のトンネルをつくり、下端を狭くして焚き口部を、上端には煙出部を設けたもので、焚き口から製品を出し入れします。
二〇度から三五度前後の傾斜をもつものが多いようです。
かつて一般に登窯と呼ばれていたものであります。
各部分の特徴によってさらに数種類に分類する試みがあります。
奈良県高市郡明日香村の飛烏寺瓦窯は、岩盤をくりぬいて、焼成部の床面を階段状につくった著名な例でありますが、そのほかに傾斜地に溝を掘り、劫入りの日乾し煉瓦を使って壁面と天井をつくり、粘土を上塗りして窯を構築した半地下式と呼ばれるもの、焼成部の床面に段をつくらないものもあります。
平窯というのは、丘陵の斜面を掘り窪めて幅二メートル前後、奥行一・五メートル以内の矩形の焼成室をつくり、その外側の一段低い位置に燃焼室を設けたもので、焼き上げるたびに焼成室の天井を壊して製品を出し入れします。
火焔を全体に廻らせるため、焼成室の床面に数条の桟道を平行して設けたものが多いようです。
奈良市歌姫町の瓦窯のように、平瓦を積み重ねて窯の周壁をつくったもの、燃焼部だけが平瓦積の壁であるものなどがあります。
一回に焼く瓦の種類や枚数、詰め方などについてはよくわかりませんが、京都府相楽郡精華町乾谷の無階式害窯では、少なくとも最終回には丸瓦だけを焼いたようであります。
京都市左京区岩倉幡枝町の栗栖野瓦窯では、平瓦が二枚を対として凹面を合わせ、桟にまたがらせた状態で残っていました。
同じ方法で二段に並べたとして一度に焼きうる瓦数は三百枚と推定されましたが、『延喜式』木工寮式には千枚と記されていて差が大きすぎます。
また瓦の成形などに必要な作業場が瓦窯に付属していたことが古文献にみえますけれども、そのような遺構の研究はいまだにほとんど行われていないようです。
わが国の瓦そのものが中国の瓦の系統に属するのですから、瓦窯の構造もまた中国系統のものでしょうが、日本人が手本とした中国の瓦窯の実体はわかっていないようです。
十七世紀に刊行された宋応星の『天工開物』の中に瓦の製法の記述があります。
明代に行われていた技術を記したものでありますが、記録されている内容は過去の時代の技術をよく伝えるものと考えられています。
瓦の焼成の個所には、「素地ができあがりますと、乾燥してから窯の中に積み重ね、薪を燃やして火を入れます。
一昼夜か二昼夜か、焼く瓦の分量によって火を止める時期を加減し、水を注いで転拗します。
煉瓦をつくる方法と同じである」と記述し、半球形の窯の一部に設けられた焚き口に一人が薪を入れ、他の一人が頂部に水を注いでいる挿絵があります。
この転勤は、火を止める時煙出しの穴を塞いでのちに行うものであって、この水気が窯を透して火気と感じ合い、火加減と水の量が適切だと良質な瓦ができるといいます。
わが国最古の飛鳥寺の瓦窯は、百済国の都があった忠清南道扶余東南里錦城山麓の瓦窯に酷似しており、飛烏寺を葺いた軒丸瓦の文様もまた百済の寺跡から匿土するものとまったく同系統のじのであって、法興寺(飛烏寺)の建立に際し百済から瓦博士が渡来してきたという『日本書紀』崇峻天皇元年の条の記載と対応します。
そしてこの百済の造瓦技術は中国南朝の梁よりもたらされたものといいます。
百済を経て中国から伝来した瓦窯は、わが国ではやがて須恵器の焼成にも使用されるようになりました。
京都市左京区岩倉幡枝町の窯跡その他で確認されています。
瓦づくりという新技術の導入に際して須恵器づくりの工人たちが動員されていたのでありました。
害窯の伝来より百年ののちに、新しい形式である平窯が藤原宮の造営に当たって設けられた。
この平窯は、周りの壁を堵で築き粘土を上塗りしてつくった、平面が杓子形の特異なもので、奥壁に三個の煙出しがあり、焼成部の床はほぼ平らであります。
この瓦窯で焼いた軒丸瓦の文様にみられる珠文は唐の系統を引くものですから、この平窯の形式も唐代の瓦窯に源流があると藤沢一夫は推測しています。
百万枚以上の瓦を必要とする宮殿建築に初めて瓦を使うのですから、瓦の焼成技術ぽかりでなくその官制も唐に学ぶこととなりました。
この時に確立した官瓦窯の組織は十一世紀まで受け継がれ、八世紀以後畿内では平窯が主流となりました。
官瓦窯は、平城宮のものとして奈良山丘陵に分布する瓦窯が五十基程知られており、長岡宮に対するものとして大阪府高槻市梶原の瓦窯、平安宮に対するものとして『延喜式』に記載されている栗栖野・小野瓦窯などがあります。
各寺院においてもその建立の際にはもともと特設の瓦窯を築いたのでありますが、奈良時代末から平安時代前期において都につくられた官寺では、のちには一般の寺院でも、官瓦窯から瓦の供給を受けています。
(藤沢一夫「造瓦技術の進展」『日本の考古学歴史時代』上藪内清訳『天工開物』)

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