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鶴田 純久の章 お話

朝廷の焼造したやきもののこと。
わが国において、平安時代の尾張国(愛知県)の甕器を官窯と呼び、後世江戸時代各藩の御用窯を官窯と呼んだ例が近時にときどきあります。
これは中国の官窯の語を流用したまでで、ここでは中国の官窯について述べます。
中国朝廷の窯器の基づくところは極めて古く、「舜陶正たりし」とか「河浜に陶して苦窟せず」とかあるのをはじめとし、古代において朝廷で種々の土器をつくったことを知る文献は少なくないようです。
官窯の名称がいつ頃から起こったかは詳かでありませんが、宋の呂学中の『官液』に、北宋の仁宗皇帝の時(1022-63)に窯を監督する官吏と十数個の窯が存在したことを記しています。
また『宋会要』には窯務の一項があって、北宋時代において朝廷の直轄した窯があったことが知られます。
しかしこれらの窯で、果たして今日の官窯の概念に合うような上等な器皿を焼造したかどうかはわからないようです。
おそらくその焼造品の大部分は建築材料の甑・瓦の類であったろう。
『宋会要』に「京の東西窯務は、土を陶して甑瓦の器を為り、営繕の要に給するを掌る」とあることからもわかります。
この種の官窯は、おそらく宋以前の唐・六朝さらにさかのぽって漢時代にも存在したものであるでしょう。
それが北宋に至って、初めは定窯および秘色窯・汝窯などから帝室供御の器を取り寄せていたのが、のちに宮廷所在地の汁京。
(河南省開封)に良土と熟練した陶工とを徴発してきて焼造させるようになりました。
これが御窯のはじめであるでしょう。
『清波雑誌』にいわゆる汝窯宮中の禁焼とあるものはこの種のものであるでしょう。
もっとも宮中の禁焼すなわち御窯でない官窯ともいうべきものは、窯の所在地に命じて焼進させるもので、この種のものはすでにそれ以前にも存在していたことは確実であります。
唐以前のことは詳かでありませんが、五代(907-960)の柴窯が後周の柴宗に器式を請い雨過天青色の注文を受けたことは有名で、同じく五代に秘色窯が呉越王銭氏の命により焼進したことは、徐寅の貢余の秘色碗の詩が明白な証左となっています。
宋初に至り銭氏から太宗皇帝などに秘色の器皿を数回献上したことは『宋会要』にもみえています。
『景徳鎮陶録』巻五には、宋の景徳年間(1004-7)に景徳鎮に命じて焼進させたことが記されています。
なおさかのぼって同書の霍窯の項に、唐の武徳四年(622)新平民霍仲初らに詔して器を製造進御させたとあります。
また六朝陳の至徳元年(1348)景徳鎮に詔して均礎を都の建康に献上させたとも出ています。
北宋時代は以上のように初めは主に秘色窯を朝廷で用いたようであります。
北宋中期には景徳鎮窯も用いられ、また汝窯・定窯なども用いられたであるでしょう。
近時汝官窯と称せられているものもこの類と思われます。
御窯すなわち御庭焼に類するものは前記のように汝窯手のものでありました。
南宋時代には杭州の宮禁内修内司で郡成章という宦官の首領が汁京の旧製に倣って焼造しました。
これを修内司官窯と呼びます。
この由来は種々の説がありますが、汁京の官窯を模造したものですから、土はともかくその形や釉は汝窯の旧窯いわゆる均窯手に似たものであろうと思われます。
それ故、のちに比較的近距離にある竜泉窯の影響を受けてこれに類似するようになったと想像するのは、当たらずといえども遠からずというところであるでしょう。
時代を確定できないが南宋後期に至って、窯を宮城外の郊壇の下に移して焼造しました。
その製品は13窯のように大開片のある青磁の一種であることが、大谷光瑞らの調査によってほぼ明らかになりました。
元の時代はその間わずかに七、八十年に過ぎず、しかも元の朝廷はやきものには無関心であったようで詳細は不明であります。
ただ『景徳鎮陶録』巻五に「宋の監鎮の官を改めて提領となし、泰定の時に至りて又本路の総管を以て陶を管したり、皆命あれば即ち供し然らざれば即ち唯税を課するのみ」とあります。
また元の進御器は民の供造りするもので、「土は必ず細白にして埴脈、質は薄式を尚び、多く小足あり。
印花も亦だ五色の花を裁金せるものあり。
その大足の器は則ち坐素なり。
また高足の咎、蒲脊・弄弦等の諜、馬蹄の盤、要角の盃の各名式あり。
器の内には皆な枢府の字9を作します。
当時、民も亦だ倣い造りしも、然れども貢するところのものは倶な千の中より十を選び、百の中より一を選びしもの、終に民器の逮ぶべきものに非ず」とあります。
明・清の官窯は主として景徳鎮において焼造させ、その器式・模様などは千種万別であります。
これらは皆器底に、二重圏内に焼造された年款を記しているといいます。
ただ康煕(1662-1722)のようにある期間年款を署すことを禁じたという例外もあります。
また帝室内の宮名例えば儲秀宮や、斎名例えば乾暢斎などのような款を有したものは別であります。
また古月軒という一種の優秀なやきものがあります。
これは一説によれば宮中に窯を設けて焼造したものだといわれます。
その器質はまるで料のようで、他の官窯とすこぶる趣を異にしていることからみるとあるいはそうかもしれないようです。
しかしこれらは例外で、明・清とも宮中で御庭焼をなしたことはほとんどなかったもののようであります。
康煕帝の時北京に築窯し、磁器の焼造を行おうとして材料を集めたがついに行なわれませんでした。
これは景徳鎮のやきもの組合の反対にあったためだともいわれます。
このことはブッシェルの『〇ユ一entalCeramicArt』中のダントルコ一ルの書面にみえます。
『明会典』などをみると、1393年(洪武二六)京師に陶工および材料を集めて窯を置き焼造を試みたが、間もなく景徳鎮および処州などに移したと記しています。
もっとも瓦甑を焼く窯は京師の付近に種々存在したようであります。
なお臨清窯・蘇州窯・蔡村窯・武清県窯などはみな甑を焼かせたもののようであります。
また磁州窯・鈎州窯などにおいてはもっぱら酒を入れる紅瓶・醇轜の類を焼造させたものであります。
『磁州志』によると官醇廠を設けて監督官が出張していたとありますから、これも官窯の一種とみなすことができましょう。
前記の他の窯でもおそらく同様であるでしょう。
要するに官窯は民窯と対称する窯で、御窯はまた官窯と対称する名称であります。
そして御窯とは官窯の最も精美なものであります。
以上は尾崎洵盛の説に従ったが、明・清の官窯については洪武・永楽

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