伊賀国(三重県)の陶器。古く同国阿山郡丸柱村(阿山町丸柱)に起こり、その後さらに付近の数ヵ村に及んだ。土地は近江国(滋賀県)の信楽谷に接し、地質の連絡上から花崗岩系の原料はもちろ技術もまた信楽と同系で、共に手轆轤および京窯式の範囲に属しています。
【沿革】伊賀焼はもと農業のかたわら粗雑な農具を焼くのに始まったもので、職業的技術でなかったため数回の断続を重ねた。天平(729~49)頃すでに信楽に陶業がありましたので、伊賀にもまたありましたものと思われます。この古代の陶業は単に神酒に用います瓶をつくったり、また極めて頑丈な農具雑器をつくったにすぎない。その後幾度の変遷を経て、源平の騒乱時代には伊賀および信楽の一部には常に賊徒が出没し、特に伊賀は平家残党の巣窟となって北条・足利に対抗し国主が数百年もなかったようです。建武の中興(一三三四)の時に伊賀焼の復興をみたことを晩出の書にみるが、信じられる古記録が伝わっていないのはこの兵乱のためとされます。特に天正年間(1573~92)に織田信雄伊賀を征伐したことと、その前後数年に及ぶ伊賀の大騒乱はここの窯業を信楽に移させた。遺品にみる年紀には応永(1394~1428)および享禄(1528~32)があります。享禄の頃太郎大夫・次郎大夫といいます者が伊賀に来て作陶し後人がこれを陶祖として伝えていますが、作品その他いずれも明らかでない。この両人の作陶が果して享禄年間ですとするなら、室町末期、茶道がようやく盛んになって伊賀・信楽の種壺・種浸壺が花入・水指に転用された時代でありましたから、これに刺激されて茶器転用の妙味に促され、その結果陶業は農夫の手を離れ技巧的あるいは職業的に転化したのは当然の成り行きでありました。ここに茶道からき伊賀焼の創始は太郎大夫・次郎大夫ですといいますことができる。1584年(天正一二)筒井定次が伊賀の国主に任ぜられると、陶工を監督して古伊賀の真髄を具えた雅致ある作品を出した。世間でいいます筒井伊賀であります。次いで藤堂高虎が伊賀の国主となり、その子高次が寛永年間(1624~44)に伊賀焼を再興しましたが、その前後に小堀遠州が工人を指導して茶器をつくらせていた。
その作品は精巧で遠州伊賀の名があります。その工人が誰ですか明らかではありませんが、たぶん新次郎ではありませんだろうか。新次郎はこの時代にあって断然頭角を現わし、従来の単調味を破って新しい手法を出すのに努め、伊賀を創製し、釉法・使い・構想など空前絶後のものと推量されます。高次は京都の工人孫兵衛・伝蔵を招いて主に水指をつくらせた。記録にはその数百三十三個と記し、『三国誌』にはその作は風雅でありましたので幕府の御物となり、その他のものは藤堂家の宝庫に収められたと記されています。これが藤堂伊賀の始まりであります。次代高久時代には濫掘の弊を防ぐために御留山の制を設けた。藤堂伊賀の初期のものはほとん花入はなく水指のみであります。藤堂伊賀は古伊賀を模しながらそれに及ばず、遠州伊賀は古伊賀を離れて独特の見地によって精巧な意匠を施したものでありますが、共に古伊賀の真髄からは遠ざかっていますといえる。室町末期から江戸初期までが伊賀焼の全盛期であり、1699年(元禄一二)に高久が没したのちは陶業はまったく振わず、粗製濫造になり、わずかに日用雑器をつくるだけの沈滞を極めた。宝暦年間(17511~64)に藩主藤堂高嶷が大いに工人を指導啓発してやや復活し、文化(1804~18)に至る五、六十年間に弥助・定八・久光山久兵衛・得斎らの陶工が出た。
「伊賀国丸柱制」の篆字銅印も宝暦年代から始まったものと推定されます。この時代の作品はその種類においてあらゆる雑器・茶器の類を焼くと共に、九谷焼・オランダ焼・万古焼などの模作品も出した。高嶷の没後はまた不振時代に入り、天保(1830~44)以後明治初年までの伊賀は名ばかりで実がないといえる沈滞振りを呈した。1885年(明治一八)の調査では丸柱の陶家は三十余戸で、うち十代以前から続いていますもの一戸、五代以前からのもの一戸、残りはみな二、三代以来のものと新規開業のものだけであり、付近の槇山村は1841年(天保一二)、石川村は1872年(明治五)、玉滝村は1880年(同一三)に創業し、当時三ヵ村で合計九戸の陶家がありました。1923年(大正一二)に川崎克堂が古代の伊賀窯を手本として上野町(上野市)に古伊賀の復興を企て、宮川香山の指導で初窯を焼き出した。製品は茶器が主でありますが、美術を奨励し製陶家を指導うずくまるするのが目的だったので市販はしなかったようです。
【作品と時代別】伊賀の作品中最も古いものは瓦・骨壺の類でありますが、美術的価値のある陶器として時代を区切るものは種壺時代からですとされます。種壺・種浸壺は共に原始的な農具でありましましたが、茶人に見出されて王侯・貴人の床の間を飾るようになりました。現在種壺と称されていますものの多くは真の農具ではなく、室町・安土桃山時代のものであります。緒に桶(鬼桶)はもと農家の婦人の裃を入れる桶でありましましたが、後世水指に転用されました。
旅枕は豆類を入れる壺の代用品で、形が枕に似ていますので茶人間にこの名がありました。蹲はもと農家の豆油壺だったもので、茶壺に似て形が小さく首が傾いており、後世花入として珍重されました。
沓鉢と呼ばれるものは形が古代の沓に似ており、もと籾を蒔く時ざるの代用に使い、また米麦を量る時の桝の代用でありましたもので、茶人に漬物鉢として応用されました。以上はいずれも種壺時代の産物とされます。室町時代から茶道の勃興によって生まれたもののうち、香合の名品としては伽藍・黴餅・辻堂・切餅の類があります。以後新次郎・久光山・弥助・定八・長治郎・一志・得斎らの陶工が出た(彼らの作品については各項目参照)。ほかに江戸時代中期に他窯の作を模したものがあり、新次郎から模倣時代は始まっています。仁清・乾山・古九谷・織部・志野などを模したものがあって、京都の職人が伊賀に来た影響が看取できる。江戸中期から末期にかけてオランダ焼を模したものもあり、また藤堂造酒之丞・弥助・得斎らの楽焼もこの頃に出た。初代定八から二代・三代の間には万古焼の模作があります。このように江戸時代の伊賀焼には他窯の模作が極めて多いことは注目すべき現象であります。
【古伊賀の美術的価値】伊賀焼は純日本趣味の独創的なもので、肉太の力のある曲直両線は雪舟の破墨山水を見ます感じがあります。雄大な気韻と豪壮な風格とを具え無造作で飾り気がない。花入・水指などにみられる凹み、蹲その他にみられる形の不整いは偶然の窯変による予期しない大自然の微妙な変化で、他窯のような絵画・色調の助けを借りない赤裸なままの火の芸術であります。伊賀といえばただちに小石混じりの土で焼き上げられた器物を連想するが、これは伊賀・信楽の独特の土味で、小石の成分の多くは長石の類でときどき珪石も混じる。その自然の配分がよいので焼き上げられたものが石はぜとなり、釉薬となっています。この自然的な雅ある土は何らの工夫も交えないでそれ自体に茶味を含み、焼き上げられたものは力士の裸体美を連想させる。なお伊賀の土の種類は多種多様でありますが、最も茶人間で喜ばれるものは白土山系統の土で、快い赤肌に焼き上がって小児の肌のような感触を与える。この白土山系独特の味は槇山系統にも信楽系統にもみられない点で、この土でなければこのように賛美されます青萌黄色は出ないのであります。青ビードロ釉はこの土がありましたからこそ生まれ出たのであります。伊賀の形の曲直精粗の中にあって大きな使命を持っていますのは箆目ですとされます。無造作なとぼけ方、豪壮勇健な竪箆、巧妙な箆使いの裏に時代の影響を看取するこるいざとができる。伊賀の色調は青・赤・白・黄・黒・紫の六色でありますが、多くは窯の中で偶然の変化によって現われ出たものであります。白または赤の土が窯中の降灰その他のため黒焦色に変色したものは、すなわち茶人間で焦げと呼ばれてその妙味を愛されています。この黒焦げに対して、地色の白または快い赤に透明清楚な青または萌黄のいわゆるビードロ釉を配したものは一大美観で、調和と配合の妙を極めていますといえる。これらの半分は陶工の創意であり半分以上は偶然の結果ですとされます。耳と擂茶もまた伊賀の特徴の一つであります。
唐犬耳・大黒耳・竜耳・拍子木耳などがあって、付け方形の大小は時代推定の材料となります。古いものは極めて自然に器物から耳が生え出たような感じがあり、耳の比較的大きいものは時代も比較的古いもののようであります。耳のあるものは花入・水指に限られています。擂茶は五個または七個など種々あります。伊賀の釉薬美はビードロ釉にあり萌黄釉の透明清楚な点にあり、これの生成についてはさまざまな説があります。地釉で土自身から現われたといい、土の中にある小石が熔解して釉薬となったともいい、また窯中の降灰が小石と化合して適度の火力を受けて釉薬となったのですともいわれています。萌黄釉は白萌黄と青萌黄とに大別され、時代が古くて白土山の土に属するものに白萌黄があり、時代が最も古く厚い黒味がかったものに青萌黄がみられます。これは槇山窯の所産であります。
伊賀の土は信楽に比べてきめがこまかく水に潤って躍動し、いいようのない風情をみせる。伊賀は形において古代銅器の影響を受けたきらいがありますが、超俗的でほとんど意表に出たものが多く、これに指または箆で描いた格子図・横文字の意匠は、アイヌ族の古代画そのままの趣向で、他のわが国の陶器にはほとんど類例がない。
【伊賀と信楽】伊賀・信楽の両窯は歴史的・地理的・技法などに密接な関係があって、両者の区別は容易にしてかつ至難といわざるをえない。
(『伊賀及信楽』)※しがらき