一般に瓦塔と呼ばれていますが、実物は瓦質ではなくて陶質であります。
陶塔ともいいます。
木造の層塔を小さくした形で釉部・屋根・相輪の各部分などに分解して焼き上げ、これらの部品を組み立てて一基の塔をつくるようになっています。
屋根瓦・稚児棟・飛槍極・地様など建物の細部がかなり忠実に表現されており、完形に復元された東京都東村山市多摩湖町出土の瓦塔は高さが197cmあります。
瓦塔出土の窯跡は関東地方北部・中部地方・九州地方北部に二十数基あって各地で製作されたことわかりますが、中でも十数基の窯跡が確認された愛知県の猿投窯は瓦塔製作の中心地でありました。
窯跡以外の遺跡は百ヵ所に近いが瓦塔の出土状態が明確でない場合が多いために、瓦塔は寺院の建立に際しその予定地に立てて浄財勧募に資したものとか、瓦塔そのものに信仰の対象としての意味をもたせようとしたり、木造の層塔の代用品であろうとか説かれてきたが、石村喜英の墳墓の標識とみなす説が最も有力であります。
瓦塔の製作は奈良時代に始まり平安時代の最盛期を経て江戸時代まで行なわれました。
(石村喜英「瓦塔と泥塔」『新版考古学講座』八)