大名物。漢作、肩衝茶入。もと鳥丸大納言家に伝来したので鳥丸肩衝と呼ばれていましたが、1587年(天正一五)の北野大茶湯の際豊臣秀吉の目にとまったことから北野肩衝の名を得ました。
松山・久我と同時代・同手・同釉立ちで、その景色の鮮明さは初花に非常に似ています。
器格はあくまでも高く無疵で一点の申し分もなく、漢作茶入中で最も優秀なものとされています。
もと足利義政所持、三好宗三、津田宗及を経て鳥丸大納言家に伝わり、鳥丸資慶の時金一万両で三木権大夫に譲られ、さらに京都三井八郎右衛門の手に入りました。
以後三井家では門外不出の秘宝でありましたが、1855年(安政二)京都所司代酒井忠義が三井宗六から譲り受け以後同家に伝えられました。
(『松屋筆記』『瀬戸陶器濫腸』『大正名器鑑』)
きたのかたつき 北野肩衝
漢作唐物肩衝茶入。
大名物。
別名「烏丸肩衝」。
天正十五年(1587)、秀吉が勢威を誇示するために開かれた北野大茶湯に用いられたことで命銘されたといわれます。
また茶道・歌道に堪能な公家権大納言烏丸光宣の所有となったところから、「烏丸肩衝」ともいわれました。
北野大茶湯では、利休が秀吉に「この亭にもよき肩衝候」と申し上げましたので、いったん通り過ぎた秀吉はまた立ち返ってこれを一覧したと伝えられています。
その後、三井八郎右衛門が入手し、安政二年(1855)に「虹天目茶碗」「粉引三好茶碗」「高麗筒花入」とともに姫路酒井家がこれを譲り受けました。
この茶入は、口造りの玉縁よく際におさまり、肩衝の張りと胴張りのつり合いほどよしきく、気品の高い肩衝形です。
釉色は柿地色の薄いのが特徴で、肩より濃い流れ釉が置形をなし、露よくとどまっている景色が見事です。
板起しの畳付は周囲がややもち上がっています。
『松屋筆記』をはじめ『玩貨名物記』『山上宗二記』『万宝全書』『古今名物類聚』『茶話指月集』『茶事秘録』『石州流過眼録』などの諸記録に記載。
また不味は『瀬戸陶器濫觴』の中でこれを「松山」「久我」と同手同釉であると述べています。
【付属物】蓋仕覆―三、鎌倉間道・薄藍地花紋緞子・橘屋裂(二人静金襴) (図版右より) 挽家―桐白木彫抜箱 挽家仕覆―紅革 由来書
【伝来】 足利義政-天王寺屋(宗達・宗及) 烏丸光宣―京都三井家―若州酒井家
【寸法】 高さ:5.8 径:4.3 胴径:75底径:3.8~4.3 重さ: 130