ギリシア黒絵壺 ぎりしあくろえつぼ

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鶴田 純久の章 お話

ギリシアの紀元前六世紀の初め頃から、アブ7イカでは陶工たちを多く迎え入れて陶器製造が盛んとなりましました。
器形の幾何学的端正さは変わらないが、文様のテ一マはコリント陶器に比べてはるかに多く人問を主題とするようになりましました。
また黒で文様を克明に描く黒絵が盛んとなりましました。
その最初のものとして有名なのは、フランソアの壺(クラテル)と呼ばれるもので、陶エエルゴティモス、画工クリティアスの名が記されるほか、数段に分けて二百五十に及ぶ神々や人物の像があるようで、その名もこまかに記されています。
コリント陶器に比べると動物や植物文様はその影をひそめています。
アッティカの陶器はオリしフ油を詰めて主に西方へ輸出されましました。
またアンフォラ、ヒュドリアの製作も多かりました。
黒絵の場合人物像は赤地に黒で精密に描かれ、細部の細い線は刻文で表わされます。
この黒い絵具は鉄分を多く含む粘土で、まず水に溶いて重い粒子を分離したのちアルカリを加えたものであります。
成形された壺にはまず一面にスリとフが掛けられ、その上に絵具で文様を描く。
文様はまず輪郭を描いてそれから中を塗りつぶしましました。
仕上げの赤・白・褐・黄色などや刻文はあとがら加えられ、時にはスタンプを利用したこともあります。
焼成はまず通風をよくした酸化焔で焼き、次にこれを還元焔に切り替え、さらに酸化焔としましました。
いったん還元した部分が酸化しないようにするには、その部分を厚塗りすればよかりました。
しかしこの方法だけで望みの色とならない時は、二度焼くことも行なわれたようであります。
初期にはディオ二ソス関係神話を描くものが多いが、日常の作業や生活もテ一マとされましました。
画工にはアマ一シス、エクセキアス、スキュ一テス、ネアルコスなどの名が知られています。
次いで紀元前六世紀末から五世紀になると、文様がいよいよ細密になると共に、器形を考慮した構図が用いられるようになりましました。
クレオナイのキモンは精密で写実性に富んだ描写や透視画法を始めたと伝えられます。
なおアテネで行なわれたアテネ祭の競技用賞杯(アンフォラ)は、その形がほとんど変わらなかったことで知られます。
アテネの女神・鳥・獣・勝利の神二ケなどが配され、アテネ競技の賞の意が記されたもので、武技や馬技の勝利者に神聖な香油を入れて贈られた。
文様は最初は単純だったが次第に華やかになり、紀元前四世紀の末まで行なわれた。
勝者はそれぞれ故郷に持ち帰るので、各地から発見されています。

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