細川三斎 ほそかわさんさい

marusankakusikaku
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

豊前国(福岡県)小倉藩主。
茶入としては利休七哲の・一入、三斎流の祖。
名は忠興、通称与一郎。
また長岡越中守と称し引退して三斎宗立と号しました。
1563年(永禄六)生まれ。
幽斎の子。
妻は明智光秀の三女でキリシタン名ガラシャといいます。
信長・秀吉に仕え丹後国(京都府)宮津城主となり、関が原の役後豊前小倉に移封されました。
1619年(元和五)家を子忠利に譲って引退。
1632年(寛永九)忠利か肥後国熊本五十万石に封ぜられますと、領国と京都・江戸の間を往復しもっぱら風雅の道を事としました。
1645年(正保二)12月2日没、八十三歳。
諸芸に通じ、茶を利休に学び、北野大茶会には松向庵を営むなど早くから名がありました。
利休横難の時古田織部と共に淀の渡し場まで見送った逸話が有名であります。
深く利休に信頼され、特に香炉の茶を伝え、その遺物阿弥陀堂釜・鉢開楽茶碗・古雲鶴茶碗・石灯篭などを受け、利休の子道安を豊前に招き茶頭として三百石を与えています。
大徳寺高桐院の三斎の墓標はその遺愛の灯篭であります。
三斎の茶は高弟一尾伊織によって繁行するようになります。
三斎流の茶書としては『細川茶湯之書』三巻があるようで、寛永十八年(1641)の奥書によれば、三斎の手前と雑談を記録したものだといいます。
『茶道古典全集』第十一巻所収。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email