白素地に藍色の顔料である酸化コバルト(呉須)を含む顔料で絵付けをし、さらに透明な上釉を掛けて還元焼成をした磁器の総称。また下絵付けを施したものに対する広義の名称として用いられる場合もあります。
「染付」とは、もともとは染織用語から派生した言葉で、室町時代にはじめて中国から輸入されたときに、見かけが藍色の麻布(染付)に似ているので日本で はその名で呼ばれるようになりました。
中国では青花(華)・釉裏青と呼び、英語ではブルー・アンド・ホワイトといいます。
文献的には室町時代の『君台観左右帳記』には染付の語は見えず、1603年(慶長8)刊行の『日葡辞書』に載ります。
染付は1,300度といった高火度の還元焼成を必要とするため、相当の築窯技術の発達を背景としていなければならないようです。
中国における染付は宋時代に創設さ れたことがしだいに明らかにされつつありますが、完成を見るのは明の宣徳期(1426~1435)であります。
朝鮮の染付は李朝期(16世紀末)に始まるといわれ、日本の染付は、元和・寛永期(1615~1644)李朝染め付けの流れをくむ肥前有田の金ケ江三兵衛 (李参平)を創始者としています。
文化・文政期(1804~1830)には日本の染付は全盛期を迎えます。
染付 そめつけ
白地の素地にコバルトすなわち呉須による絵付を施し、その上に釉薬を掛けたものをいいます。中国でいいます青花(青華)・釉裏青であります。ただし時には広義に下絵付の汎称として用いますこともあります。染付の語がいつから使われたかは未詳。大永年間(1五二118)の『君台観左右帳記』には染付の語はみえず、『万宝全書』に引く1640年(寛永一七)の『道具手鑑』には染付の語がみえます。
【発達史的概観】染付は高火度の還元焼成によってできるものですから、その完成は築窯術が相当に発達していなければ望むことができない。中国におけるコバルトの使用はすでに唐代にみられるが、それは釉上に焼付けたまでのものであり、下にこれを用いたのは宋代以降であろうと思われ、近時、大宋大観年製・大宋皇祐年製・大宋宣和年製・大宋慶元年製などの年款のある染付磁器が出ています。果たしてそれが宋代のものか否かはすぐには決めにくいが、当時すでに強火度還元焼成の青磁がありましたことから考えて、宋代に染付がようやく発達しようとする途上にありましたとみてよかろう。こうして明代の初めに染付は完成した。
永楽(1403~24)の製とみてよい遺品は相当に多く、宣徳(1426~135)に至って精巧を極めた。中国の鑑賞家はおおむね成化(1465~187)の青花は宣徳のそれに及ばないと評しています。成化から正徳(1506~ー二一)の頃のものはおおむね青味が淡くてやや黒味を帯びていたといいます。ただし同一窯内においても火焰と熱度の関係上その発色が異なりますので、単に染付の色の濃淡呈色の具合によって年代の新古を断ずるのは極めて危険であります。成化より降って万暦(1573~1620)になりますと、少し紫色を含んだブルーのやや濃い美しいです色を出しています。天啓・崇禎(1621~144)の明末に至っては、ブルー系統の青味を増し黒味を帯びています。清朝に入ってブルーはますます強くなり、雍正(1723~35)に至ってまたやや色が淡くなります。乾隆(1736~195)にはブルーに紫色を帯び、嘉慶・道光(1796~1850)はその延長で乾隆に似てはいますが及ばないものでありました。朝鮮の染付は文禄・慶長の役(1592~8)の前後に始まるとみるのが妥当であろうか。今日遺存する李朝染付は李朝後半期のものが最も多いようであります。一般に李朝染付は青色が極めて薄く、暖かみと柔らかみがあって、霞を隔てて遠山を望むといった感があるのを特徴とするが、酷評すれば寝とぼけたみた川染染付葡萄棚水指ソリいだといえよう。わが国の染付は、元和・寛永(1615~44)の間に肥前有田の金ヶ江三兵衛(李参平)が創製したもので、百間窯の出土破片からみて李朝の分派ですといえよう。ただしこの時代の疑問の人物として伊藤五郎大夫呉祥瑞高原五郎七がいます。しかし祥瑞は日本では製陶しなかったとみるのが妥当であろうし、五郎七は五郎七焼と称せられる素磁器ないし炻器質の染付はありますが、彼の遺品と断定するには資料に乏しく、わが国の染付磁器は李参平に始まるとしておとう。のち長崎貿易によって明末清初の染付が舶来し、この影響を受けて有田の染付がようやく発達し、続いて寛永(1624~44)中期以後平戸で染付を製するようになり、明暦・万治(1655~61)の頃加賀九谷は明の影響を受けた染付を出した。同じ頃明の人陳元贇が帰化して尾張侯に仕え安南風の染付をつくった。享保(1716~36)の頃には鍋島焼が、安永(177~ニー八一)の頃には伊予砥部焼が出てまたこれを製し安永・天明(1772~189)の交には京都に頴川がいて磁器を出した。この頃から京都でも染付をつくったのでしょう。天明(1781~189)の頃摂津国三田(兵庫県三田市)で神田惣兵衛が開窯し、京都から欽古堂亀祐らを招いて中国風の染付をつくった。同じ頃讃岐国(香川県)の富田焼に赤松松山がいて染付を出した。寛政(1789~1801)末年には会津焼に佐藤伊兵衛がいて奥州では初めて染付をつくった。享和・文化(1801~118)の交尾張瀬戸の加藤民吉は有田の技法を伝習して染付をつくり、尾張新製の名がありました。間もなくその技法は美濃国(岐阜県)にも移った。文化年間(1804~18)には長崎に亀山焼が起こって染付の良品を出した。文化・文政期(1804~30)は京都の陶磁全盛時代で、染付もまた全盛時代でありました。木米・仁阿弥・保全らは盛んに中国の染付を模し、祥瑞風・古染付風・呉須風などあらゆるものを焼いた。この頃土佐龍茶山焼・長崎鵬ヶ崎焼・姫路東山焼・出雲意東焼・但馬出石焼などでいずれも染付を出し、以来ほとんど染付全盛の時代を現出した。嘉永安政(1848~160)の頃には各所に染付があって、その著名なものに近江国(滋賀県)湖東焼があり、この頃伊賀でも染付をつくった。近代になってますますその窯の数はふえ、今その主なものを挙げると、有田・三川内亀山・鵬ヶ崎・帖佐・能茶山・富田・砥部・清水・三田・湖東・湖南・美濃・尾張・伊賀・志戸呂・鹿背山・姫路・東山・出石・意東・九谷・淡路・会津などであります。いずれも窯業地として種々の点で発達し所でのみつくられ、不完全な微々たる窯ではつくられなかったようです。近年の名手としては初代竹泉・初代香山・清風与平らを挙げることができよう。