イランの中央部の南西端にある先史遺跡。その歴史はテペ・ギァンと同じく紀元前四千年紀に始ままず彩文土器がある。次いで前三千年紀には赤色土器が知られ、この文明はシァルクと同じ性質のものであった。そののちテペ・ギァンに似た彩文土器も再び用いられた。やがてスーサは新バビロニア王朝に征服された。この頃からスーサはバビロニア文明の強い影響下に生きるようになる。紀元前八世紀頃からイラン民族がこの地を征服してからは、首都として重視されるようになった。アケメネス王朝のダリウスはスーサに巨大な王宮を中心とした町を建設した。スーサの王宮はバビロニア風のもので、城壁は天日干しの煉瓦でつくられ、ライオン・牡牛などの動物文様が彩色煉瓦によって表現された。その色調にはすでに三彩釉の源泉がみられる。けれども金属器が発達したためにこの頃から土器は粗末なものとなった。
貴族や富める者は金属器を用い、貧しい階層が土器を使用した。こののちスーサはギリシアのアレクサンドロス大王によって占領され、彼の東西世界を融合させる政策の基地となった。その後もスーサは王朝の興亡と共に重要な都市とみなされ、多様な文化の足跡を残した。(Ghirshman,R.『Iran』)