【粘土の採取】土器の製作はまず好適な粘土を採取することに始まる。わが国における考古学では原料の粘土に手を加えて土器をつくる状態に仕上げたもの、すなわち素地と原料の粘土とをまだ呼び分けない人が多い。焼成した土器の土質は胎土という名で呼んでいる。粘土には母岩、すなわち長石を多量に含む岩石がその場で風化して生じた一次粘土と、風水によって運ばれて他に堆積した二次粘土とがある。世界の土俗例からみると、土器の原料には後者を用いる例が圧倒的に多く、一次粘土の使用例は少ない。この他特殊例としてアフリカには蟻塚の土を使用している部族もある。
【素地作製】採取した粘土を加工するには、まず乾燥してから打ち砕き、異物を除き、篩にかけるなどしてから水を加える方法と、最初から水と混ぜ合わす方法とがある。簡単な場合ではこうして水を加えた粘土を十分とねて気泡を追い出し、均質にすることによって素地が完成する。しかしこまかい素地に仕上げるためにはしばしば水簸が行なわれる。例えば水と共に攪拌した粘土の上澄み別の容器に移し、それを沈澱させればきめこまかい粘土ができる。
【混和材】素地作製の工程で多く行なわれるのは、粘土に他の材料を混和することである。無機質の混和材としてはまず砂粒のほかに花崗岩・珪岩などの石・雲母・石英・長石角閃石などの鉱物片がある。これらを例えば火で熱して急に冷水に入れるなどの方法で破砕して用いることが多い。このほか鉄鉱石・黄銅鉱(アフリカ土俗例)・黒鉛(縄文早期岐阜、ヨーロッパ鉄器時代ラ”テーヌ文化)・石綿(北ヨーロッパ新石器時代櫛文土器)滑石(縄文前・中期九州、朝鮮新石器時代)・火山灰(アメリカ土俗例)がある。さらに土器破片を破砕した粉末(西アジア新石器時代、アフリカ・アメリカ土俗例)の使用例もある。有機質の混和材には植物繊維(縄文草創一前期東日本一般、西アジア新石器時代、中ヨーロッパ新石器時代、アメリカ・アフリカ土俗例)・籾殻(西アジア新石器時代、アメリカ・アフリカ土俗例)・撚紐(縄文早期北海道)・草食動物の糞(アフリカ・アメリカ土俗例)・カンナ屑(アフリカ・アメリカ土俗例)・果実種子(アメリカ土俗例)・木炭(アメリカ・ヨーロッパ先史時代)・羽毛(アメリカ土俗例)・海綿針骨(ヨーロッパ先史時代、アメリカ土俗例)・貝殻粉末(縄文中期関東・九州、エジプト新石器時代―古代、ウクライナの青銅器時代トリポリエ文化)・樹液(アフリカ土俗例)血液(ハンガリアのプレ=スキタイ文化)などがある。混和材を多量に入れると土器の胎土の気孔が増大する。このことは、同じ粘土を用い、混和材を加えた素地と加えない素地とを同時に同時間焼成すると、前者は芯まで赤く焼けているのに後者はまだ芯が黒いままであるという実験によってもよくわかる。混和材の多くは素地作成の工程で粘土の粘性を弱める働きをもつが、さらに乾・焼成によるひび割れを防ぎ、また耐火度を増すなどの目的を果たしている。したがって混和材は限られた器種のみに用いることも多い。小型土器には使わず大型土器をつくる素地にのみ用いる例、装飾する土器には用いず火にかける飾らぬ土器に用いる例などがある。また混和材を多く入れ水甕を土中に埋めて地表に口を出しておくと、気化熱によって甕の中の水は常に冷たい(パキスタン土俗例)という効用もある。このほか粘性の強い粘土と弱い粘土とを混合して素地をつくることもある(ドイツ新石器時代、各地土俗例)。粘土中に本来含む鉱物や混和材の材料には、特定の地域にしか産出しないものがある。土器の薄片を鉱物顕微鏡で観察する方法やその他の岩石学的方法によって、土器の移動が確認できることも多い。ドイツ新石器時代では五〇〇キロメートル、アメリカ先史時代では五〇キロメートルの土器運搬を実証している。またイギリス新石器時代に関しては、化石の貝を含む粘土を用いた特殊な素地の使用によって、三〇〇キロメートルに及ぶ広い範囲の数遺跡における土器交易の実態を論じている。
【土器成形法の三種】轆轤使用に先立つ土器づくりは、適切ではないが英語ではハンドメイドhandmade)と総称している。わが国にはまだよい用語が生まれていない。これは手捏ね法・粘土積み上げ法・型起こし法に大別できる。考古学研究者はこれらをそれぞれ独立したものと解釈しがちであるが、土俗例をみるとこれらは必ずしも明確に区別できず、またしばしば二つの方法を組み合わせて用いられている。まず手捏ね法はわが国の楽焼にみるように、粘土塊の中央に凹みをつくり、これを次第に広げ壁を薄くして成形するものである。この方法のみでつくる場合は小型の単純な形態の土器に限られる。しかし手捏ねと粘土帯積み上げ法とを組み合わせて、より大型の複雑な形態の土器をつくることも多い。この方法では底部のみ、または底部を含む土器下半、あるいは土器の大半を手捏ねでつくり、土器の上半または口縁部のみを粘土帯で成形する場合が多い。しか逆に口縁部を含む土器上半を手捏ねでつくり、土器下半を粘土帯で成形する例もある。また手捏ねで部分をつくり分け、これを組み合わせる実例もある。粘土帯積み上げ法には、(一)長い粘土紐を螺旋状に積み上げる、(二)粘土紐を一周ごとに切って積み上げる、(三)粘土で完結した輪をつくふるいこれを積み上げる方法がある。また(四)土器の胴部下半・上半頸部・口縁部などの屈曲部分で粘土帯の積み上げを停止し、その数帯分で輪状のものをつくって乾燥を待ち、次の部分を継ぎたしていく成形方法も多くとられている。わが国における考古学では巻き上げの呼称を(一)に限って用いる人、(二)を指す人もある。輪積みの名は(三)について用いる人が多いが、(四)を指して呼ぶ人もあるなど用語法に混乱がある。また(四)に関しては各部分別につくっておき、これを組み合わせて成形したとする誤解もある。なお粘土帯積み上げ法の特殊例として、粘土小塊を隣り合わせに連続して円形に並べてから、これを輪に仕上げるという工程を繰り返す方法(アフリカ土俗例)もある。粘土帯積み上げ法にも、底部から口縁部ま粘土帯で成形する方法と、土器の体部を粘土帯で成形し、粘土板を埋めて底部とする、あるいは底部円板の上に粘土帯を積み上げるという方法がある。粘土帯積み上げ法による土器はしばしばその継ぎ目で割れる。この場合粘土帯上端の破面凸形をなし、これに対応する粘土帯の下端の破面が形をなしていることが多い。この観察に基づいて、ヨーロッパの先史土器は底部から始めて口縁部に及んだことが古くから実証されている。
アフリカ・アメリカの土俗例でも大多数が底部からつくり始めている。メラネシアでは口縁部からつくる例が多いらしい。わが国では縄文式土器が口縁部からつくり始めて底部に及んだとする説もある。しかし実証的な観察例では草創・早期の尖土器をも含めて、やはり底部からつくり始めている。現状で明確な唯一の例外は岩手県の早期後半の土器であって、土器内面に残る手掌痕から口縁部を下にしてつくったことがわかる。なお近畿地方前期の北白川下層Ⅱ式、北陸地方の中期の土器は、底部側から粘土帯を積み上げて成形したものに、あとから底部を付加した実例である。粘土帯積み上げ法は、しばしば叩き手法と結び付いている。これは土器内面に当板を当て、外面から叩板で叩き締めながら成形する手法であって、大型土器の作成に多くみられる。叩板には木目に平行(弥生式土器)、あるいは直交(須恵器)の刻線を付けたり、縄を巻き付けていることも多い。中にはこの刻線を複雑な文様としたものもある(中国新石器時代末以降の印文陶、畿内後期弥生式土器)型起こし法には凹面型起とし法と凸面型起とし法とがある。凹面型を使用すると成品の外面が、凸面形を使用すると成品の内面が型で決定される。凹面型の材料には土製(土器を含む)・石製木製のものがあり、いずれも半球状の凹面型の中に粘土塊を押し込む場合が多い。凹面型の中織物を敷いて型離れをよくするもの(北ヨーロッパ新石器時代―鉄器時代織紋土器)もある。凹面型の中に粘土帯を積み上げる例もある。なお凹面型起こし法として最も原始的なものは、地面をめて物などを敷きそこへ粘土塊を押し付ける方法である。凸面型起こし法は土器または土製石製木製など半球形の型を伏せて、その上で成形するものであって、粘土塊を押し付ける場合と粘土帯を積み上げる場合とがある。凸面型起こし法にも、この方法でつくった二個の半球型を組み合わせて球状に仕上げ、一方に口を切り開き口頸部を加える方法、凸面型でつくった半球形を土器の下半部とし、上半を粘土帯によって形成する方法(古墳時代土師器、アフリカ・アメリカ土俗例)もみられる。膝頭の上に粘土塊を載せて鉢をつくる(アフリカ土俗例)、肘に粘土塊を押し付けて皿をつくる(京都播枝土俗例)は凸面型起こ法、あるいは手捏ね法の特例といえよう。なおこのほか凸面型・凹面型を組み合わせて用いることもある(古墳時代土師器の篭目土器のうち内外に篭目を残すもの)。起こし法は人間・動物を型どった土器(ギリシア、ペルー)、突出した文様を表現する土器(ギリシア、ローマ、漢)などの製作にも認められる。これはいわば鋳型であっ木・土・金属などの材料でつくり、二組以上の割型を用いている。なお型に粘土を押し付けるのではなく、泥状の素地を型に流し込む方法がパレスチナの鉄器時代に認められる。
【土器成形の下敷】土器製作は地面の上で直接行なう例もある。しかし平らな下敷(むしろ・獣皮・石板・布・網代・葉)、凹面の下敷(地面に掘っ穴・瓢箪・土器や木の鉢・笊)などを用いることが多い。また大型土器や木の台などに載せて高い位置で製作することもある。またこのほか鯨の脊椎骨を二個重ねて台として使用し、上の骨の上で土器をつくり、随時これを回したもの(北九州縄文中期阿高式)もある。
【回転台】さらに進んだ構造が回転台である。回転台の構造の一例をあげると、円板の下面中央に軸状の短い突出をつくり、地面に固定した軸受けに載せたものであって、回転は容易である。しか台は軽く、回転に惰性を与えることができない。しかも軸の摩擦面が大きいため回転は遅く、すぐ止まってしまう。
【轆轤】轆轤は軸の尖端が尖り、軸受けでの摩擦面も小さい。円板は重いので惰性が付き一分間にほぼ百回転以上の急速かつ永続する回転が可能となる。エジプト・近東・ギリシアなどの絵画には土器づくりの情景を描いたものがある。しかしこれらでは轆轤と回転台とを区別できない。土器づのうえで回転台と轆轤との決定的な差異は、回転台上の土器製作が粘土帯積み上げ法に終始し、調整や文様を描く段階でやや速い回転を利用しているのにすぎないのに対して、轆轤を用いると回転運動の遠心力によって、円板の中心に据え粘土塊から土器を挽き出すことができる点である。したがって須恵器の大型土器の製作のように轆轤上で粘土帯を積み上げて成形している場合は、轆轤を回転台として利用し、口縁部付近の成形調整のみに真正の轆轤機能を果たしているとみるべきである。轆轤による成形と叩き手法との組み合わせの特例としては、轆轤成形でつくった土器をさらに叩きの手法によってのばして大型の成品に仕上げる方法もある(インド土俗例)。轆轤はメソポタミアで発明されたらしい。現状で最古の轆轤製土器は紀元前五~四千年の土器(ワラカウルク期)である。やがてパレスチナ・小アジア・クレタ島に及んだ。クレタ島では台の重さ増大するために取り付けた土製・石製の円板も多数発見されている。中ヨーロッパでは鉄器時代初期のラテーヌ期に初めて轆轤が登場したが、中・北ヨーロッパでそれが発達普及したのは帝政ローマ時代後期のことである。ただしオランダ・北ドイツではローマ時代に轆轤が使用されたが、ローマの滅亡後再び轆轤が消え、十一、二世紀になってようやくそれが普及した。パキスタンでは青銅器時代ハラッパ文明(紀元前三千年)、中国では新石器時代後期(竜山文化)に轆轤が出現した。わが国では弥生式時代前期末中期末に近畿地方を中心とした地域で回転台を使用した。木器(弥生式時代前期)・石製品(古墳時代前期)に横軸轆轤を使用し始めたのに遅れて、土器用の轆轤は須恵器と共に登場した。轆轤には手廻し・足蹴りの両者がある。後者はおそらく中国で発達したものであって、ヨーロッパでは中世になってようやく出現したらしい。ロシアでは十一~十二世紀の蹴轆轤が出土している。アメリカ先史時代にはついに轆轤は登場しなかった。(フォスター「ロクロ」佐原真訳「土器の話」九『考古学研究』一九ノ一