名古屋製陶株式会社 なごやせいとうかぶしきがいしゃ

marusankakusikaku
Picture of 鶴田 純久の章 お話
鶴田 純久の章 お話

1906年(明治三九)日本陶器合名会社技師長飛鳥井孝太郎・高橋虎三郎・吉田政一・比良虎蔵らは、職工員三十名で陶磁器貿易商寺沢留四郎と共に帝国製陶所を創立し、1911年(同四四)名古屋商工会議所会頭上遠野富之助の斡旋により伊藤次郎左衛門・神野金之助・岡谷惣助の賛成を得て、現在の名古屋市千種区萱場町に資本金十五万円で合資会社名古屋製陶所を創設した。1920年(大正九)同市北区山田町の中央窯業を買収して衛生陶器を製造し、1935年(昭和一〇)に磁器タイルの生産を始め、翌年には緑区鳴海町五万六千坪の土地を購入してドイツ式新工場を建設し、併せて耐火レンガ工場も建設した。これが戦後鳴海製陶株式会社へ発展。その間1915年(大正四)の御大典には大饗宴用食器の製作をし、1935年(昭和一〇)にはディナーセット八千組月産まで拡大しアメリカ市場にメイトーチャイナの名をとどろかせた時代もあった。戦後曲折を経て同市北区山田工場を春日井市高蔵寺に移転したが、数年にして、1969年(昭和四四)三月高蔵寺工場を松坂屋に渡し名実ともに消滅した。

前に戻る
Facebook
Twitter
Email