重文。
鎌倉末期に元から来朝し、日本禅林の綱紀の振粛に大きな功績をのとした清拙正澄が、博多円覚寺の僧元中に「秀山」という別号を与えた際、その号の意味を述べ、嘱望の意を寓した偈頌。
四句にそれぞれ四季の山容を詠み込み、禅者としての境涯の向上を期待する意を寓したもので、彼の詩文の才の豊かさが察せられる。
その書風は、『大鑑清規』を制定しその人柄にふさわしく、一点一画もゆるがせにしない謹厳綿密なものであるが、しかもその間に悠揚せまらぬ高雅な風格を漂わせている。
三印の最下部にある香炉形の印文は中峰正伝というもので、密庵傑の正系という意味といわれる。
清拙正澄は福州連江の儒学の家に生まれ、15歳で剃髪得度し、諸方遍参後、臨済宗破庵派の愚極智慧の法を嗣ぐ。
当時の禅界の巨匠月江正印がその俗兄である関係で、彼の名は早くから日本にも聞こえ、嘉暦元年(1326)懇請を受けて古先印元らと博多に来着、その後、建長・浄智・円覚・建仁・南禅の諸寺に歴住し、小笠原貞宗の帰依を受けて信濃開善寺開山に請ぜられた。
深く百丈懐海を尊崇し、『百丈清規』をもとに『大鑑清規』を制定した。
暦応二年(1339) 「棺割りの墨蹟」として知られる遺隔をのこして66歳で示寂、大鑑禅師と諡された。
その詩文集『禅居集』という。
なお秀山元中はその後、鎌倉瑞泉寺・豊後長興寺・博多聖福寺に歴住、貞和五年(1349) 67歳で示寂。
【伝来】黒田家
【寸法】本紙―縦81.3 横30.5
【所蔵】松永記念館