金継ぎを受け賜っています。お気軽にお問い合わせ下さい。

平野肩衝

平野肩衝(ひらのかたつき)

中国製(漢作)の大名物茶入 公爵・島津忠重氏が所蔵しています。

名称の由来
安土桃山時代(天正の頃)、堺の豪商であり茶人であった平野道是(ひらのどうぜ)が所持していたため、「平野肩衝」という名前が付けられました。

寸法・重量の現代換算
高さ:約8.5cm(二寸八分)
胴径:約7.8cm(二寸五分六厘)
口径:約3.9cm(一寸三分)
底径:約4.8cm(一寸六分)
甑(こしき)高:約1.1cm(三分五厘または四分)
肩幅:約1.5cm(五分)
重量:約120g(三十二匁)

付属品の一覧
蓋は1枚で、す(窠)が入っていますが、火災に遭った痕跡があります。御物袋は白羽二重で紐は白。
仕覆(袋)は「雲鶴純子」です。
挽家(ひきや)は黒塗りで、これを入れる袋は薩摩広東です。
内箱は溜塗りで面取りがされており、金粉で書付があります。外箱は黒塗りで金粉の書付があります。

安土桃山時代の茶会記における記録
松屋日記によると、天正7年(1579年)5月10日の朝、平野道是の茶会において、掛物(絵)の脇にこの肩衝茶入が飾られていました。
津田宗及茶湯日記によると、天正9年(1581年)5月23日、平野道是の茶会(かたつきのひらき=この肩衝の披露の茶会)が開かれました。床の間に四方盆に載せて飾られ、休憩(手水)の間に袋を脱がせて下ろしてありました。その後、天目台に据えられ、お茶が終わって茶入を拝見している途中に、石菖の絵が持ち出されて客の前に掛けられました。この肩衝茶入は客の宮法(宮内)が床の間へ上げました。薄茶には道陳が持っていた人形茶碗が使われました。
同じく天正9年10月11日の朝、道是の茶会に宗納と津田宗及が招かれました。床の間に四方盆に載せられた肩衝茶入があり、木賊(とくさ)色の金襴の袋に入っていました。壺の茶(濃茶)は宗及が点て、道是に頼んで床の間へ上げさせました。宗及はこの肩衝を何度もよく拝見し、「以前見た時よりも土の質がよく分かった。釉薬(薬)は硬めであり、両方に詰められたような跡がある」と詳細な感想を記しています。

各茶書における記録
東山御物内別帳には、平野肩衝について「平野の持ち物だったことを清める(確認する)べき」との記載があります。
古名物記、玩貨名物記、古今名物類聚には、いずれも「平野肩衝」として、松平薩摩守(島津家)の所持する唐物の大名物であると記されています。
東武実録によると、寛永7年(1630年)4月18日、三代将軍徳川家光が島津家久(薩摩中納言、大隅守)の屋敷を訪れた際、この平野肩衝が使われました。袋は東山殿(足利義政)の暖簾の切れ端で作られた「かんとう」の袋が使われていました。

火災による焼失と奇跡的な修復
南葵文庫本三晩談話には、この茶入が火災に遭った際の劇的な救出劇が記録されています。
先年(寛永7年)、島津家の桜田屋敷が類焼した際、この茶入も火の中に落ちてしまいました。その時、居合わせた人が茶道坊主に「いつもどこに保管しているのか」と尋ね、場所を特定しました。すぐにその場所の灰をかきのけて周囲に垣根を作り、灰が冷めるのを待ってから、大きな水たまりに水を張り、ふるい(簁)を使って灰を水でこし出しました。
その結果、小さな破片に至るまで残らず見つけ出すことができたのです。これは非常に賢い方法でした。その時、馬廻りの武士で手先の器用な者がおり、その破片をすべてつなぎ合わせて修復しました。そのため、元の釉薬の色が残っているのは一箇所だけで、残りの大部分は漆の色になっているとのことです。
また、朱書の追記には伝来の経緯が記されています。文禄4年(1595年)、朝鮮出兵(文禄の役)の際、島津義弘へ領地を与える朱印状と目録が朝鮮陣中の義弘へ届けられました。義弘が一時帰国して伏見に到着した際、豊臣秀吉から直接朱印状と目録を賜り、その時に「小泉御胃(茶入)」とこの「平野肩衝」を一緒に拝領し、再び朝鮮へ渡海したとあります。
茶入の特徴として、寸法や「ひやう(瓢、またはヒビか)が6つある」「釉薬は青みを帯びている」といった古い書付の内容も記されています。

伝来の総括
天正年間には平野道是が所持していましたが、後に豊臣秀吉の宝物となりました。文禄4年(1595年)、秀吉は島津義弘の軍功を称え、伏見においてこの茶入と小泉胃(茶入)を下賜しました。
寛永7年(1630年)4月18日、島津家久の屋敷を将軍徳川家光が訪れた際、この茶入でもてなしましたが、同じ年に桜田の藩邸が火災に遭い、この茶入も火の中に入ってしまいました。しかし、灰をふるいにかけて破片を拾い集め、大部分を漆で繕って修復し、今日まで島津家に伝えられてきたのです。

大正時代の学術的実見記(鑑定記録)
大正10年(1921年)9月20日、東京の大崎にある島津忠重公爵邸において、この茶入を実際に調査しました。
口の作りは薄手で、捻り返しが深いです。甑(こしき)の中ほどがくびれており、肩が張っています。胴には同じ間隔で縦のヘラ跡(竪箆)が6本入っています。裾から下は茶色の土(素地)が見え、底は板起こしで、中央が少し窪んでいます。
全体は黒飴色の釉薬ですが、一部がブツブツと変質して光沢を失って(釉かせ)います。寛永7年の火災で割れたものを、漆を使って縦横無尽に継ぎ合わせて修復しているため、元の釉薬の色が失われている部分が少なくありません。
内部は口の縁に釉薬が掛かり、それより下は荒いろくろ目が回っており、底の中央は少し高くなっています。外部の黒飴色の釉薬の中には、赤みを含んだ茶色の釉薬の斑点があります。火災に遭う前はさぞかし面白い景色(模様)があったのだろうと思われますが、漆での修復が多いため、元の状態からどれほど変わってしまったのかを知ることはできません。
茶入の大きさに比べて手に取ると非常に軽く感じるのも、陶器の破片を多くの漆でつなぎ合わせているためでしょう。

【原文】

平野肩衝

漢作 大名物 公爵 島津忠重氏 藏

名稱
天正の頃、平野道是所持の肩衝なるを以て此名あり。

寸法
高 貳寸八分
胴徑 貳寸五分六厘
口徑 壹寸參分
底徑 壹寸六分
甑高 參分五厘又四分
肩幅 五分
重量 參拾貳匁

附属物
一 蓋 一枚 窠火に逢ふ
一 御物袋 白羽二重 緒つがり白
一 袋 一ツ
雲鶴純子(裏萌黄海氣、緒つがり紫)
一 挽家 黒塗
袋 薩摩廣東(裏紋純子、緒つがり藤色)
一 内箱 溜塗 面取 書付金粉字形
平野肩衝

一 外箱 黒塗 書付金粉字形
平野肩衝
平野 肩衝

雑記
天正七年己卯五月十日朝 平野道是
繪 肩衝 軸脇へ上げらるゝ。
(松屋日記)

天正九年五月二十三日 平野道是會
かたつきのひらき
床にかたつき、四方盆、手水の間に袋ぬがしておろしてあり。只天目黒臺に据ゑて、籠より備前水下、茶過て壺見申候半に石菖の繪持出て、客の前にて道具掛けられ候、かたつきは宮法(宮内)床へあげ候、薄茶道陳所持の人形茶碗。
(津田宗及茶湯日記)

天正九己年十月十一日朝 道是會
宗納 宗及
床にかたつき、方盆に、とくさ色の金襴袋、爐うき釜、自在、少さきハイカツキ、天目黒臺に人形茶碗、壺の茶、宗及立申候、道是に床へ上げさせ候也。肩衝再々遍見る、但前より土能く覺候、藥かため也、兩方につめかたあり。
(津田宗及茶湯日記)

平野肩衝 平野之分清可。(東山御物内別帳)

平野肩衝 松平薩摩守。(古名物記)

肩衝 平野か 松平薩摩殿。(玩貨名物記)

平野肩衝 唐物 大名物 松平薩摩守。(古今名物類聚)

寛永七年四月十八日 將軍家(家光)薩摩中納言家久(大隅守)が家に渡御。御相伴丹羽長重、加藤嘉明、
一 掛物 楚石
一 茶入 平野肩衝 袋かんとう 東山殿ののれんの切
一 茶碗 三ッ足割高臺
(東武實録)

平野肩衝の事 先年(寛永七年)櫻田御屋敷御類焼の節、御茶入も火に入候。其節詰合の人より、坊主へ兼て何方へ致格護置候哉御尋、或方へ召置候段申候に付、則焼灰の内をかきのけ垣を結廻し、灰冷候に付、大水溜に水をたゝへ、簁を以て灰をこし候へば、小問われをも不殘見出し申候、よほど發明の仕形にて其時分御馬廻某細工に心有り、つぎ立申候。ひと所藥色あり、餘は大方漆色之由に候。
朱書入 文祿四年、義弘公へ御領國御給之御朱印并御目録可被遣候間、御歸國可被成旨朝鮮國へ台翰御到來に付、則御歸朝の處に、於伏見從秀吉公御朱印御目録御給、其節小泉御胃并平野肩衝御茶入一所に御拜領、再朝鮮國へ御渡海。 一、平野かたつき寸法、まわり六寸三分、高さ二寸、ひやう六ツ有之、藥青め、古き書付有之候よし。(南葵文庫本三晩談話)
(備考)三晩談話の著者は、畫家にして木村三晩庵靜隱と號す、明和八年歿、年八十九。

傳來
天正の頃、平野道是所持にして、太閤秀吉の什物となり、文祿四年征韓の役、秀吉島津義弘の軍功を賞し、伏見に於て、此茶入と小泉胃とを賜ふ。寛永七年四月十八日將軍家光、島津大隅守家久の邸に臨むや、此茶入を以て將軍を饗せしが、同年櫻田藩邸焼失、此茶入も亦火中に入りしを、灰燼を篩ひて其殘缺を拾ひ集め、大半漆繕にして傳へて今日に及べりと云ふ。

實見記
大正十年九月二十日、東京府荏原郡大崎町島津忠重公邸に於て實見す。
口作薄手にて拈り返し深く、甑中括れ、肩衝き、胴に同一間隔を以て竪箆六筋あり、裾以下茶色土を見せ底板起しにて、中程少しく窪めり、總體黒飴釉にて一部ブツ/\と釉かせたる處あり、寛永七年櫻田屋敷にて火災に罹りたるを、漆を以て縦横無盡に繕ひたるが爲め、原釉色を失ひたる處少からず、内部口縁釉掛り、以下轆轤荒く繞り、底中央少しく高し、外部黒飴釉中に赤味を含んだる茶色釉の點々あり、罹災前は定めて面白き景色ありたるならんと思はるれども、漆繕ひにて原状と如何なる相違を生せしかを知る能はず、其大形なるに割合はして手取極めて輕きも亦漆繕ひ多きが爲めなるべし。

タイトルとURLをコピーしました