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富士茄子

富士茄子(ふじなすび)

中国製(漢作)大名物 所蔵:侯爵 前田利為 氏

名称について
この茶入の景色に、特に富士山を思わせるような特徴はありません。そうであれば、世に数多くある茄子茶入の中でも、富士山のように高く秀でていることを称えた名前なのでしょうか。あるいは、世間で言われる「一富士二鷹三茄子」の故事にちなんで、この名前を選んだ人がいるのかもしれません。しばらくは疑問を残したまま、後日の考察を待つことにします。

寸法
高さ:1寸9分5厘(約5.9cm)
胴の直径:2寸3分5厘(約7.1cm)
口の直径:9分(約2.7cm)
底の直径:1寸または9分5厘(約3.0cmまたは2.9cm)
甑(こしき:口の立ち上がり部分)の高さ:1分7厘(約0.5cm)
重量:18匁(約67.5g)

附属物
一蓋:1枚、窠(すば:くぼみ)なし
一御物袋:浅黄色の紋羽二重、組み紐は遠州茶色
一袋(仕覆):5つ
純子剣先中
同 広東解袋
同 広東 上(裏地は茶色の海気で大破損あり、組み紐は藤色)
毛流(もうる)段織広東(裏地は茶色の海気、組み紐は紫色)
八左衛門広東解袋
一袋箱:桐材の白木
一つの箱に入る
一つの箱に入る
一木形(きがた):桐製、1個、胴に「富士茄子」の書付あり
一挽家(ひきや):鉄刀木(たがやさん)材、天下一文字の形、内側は黒本塗り
袋:鹿のもみ革、組み紐は紫色
一内箱:桐材の白木、表の書付は遠州、裏は書付のある張紙
表:「富士 茄子」
裏:「菱 富士茄子 太閤様より、その他由来があって拝領した 広徳院の御(品)」
袋:燻べ革、組み紐は紫色
(備考)広徳院とは前田利家のことです。
一外箱:桐材の春慶塗、金粉の書付は宗甫(小堀遠州)、錠前付き
富士茄子
一添盆:四季盆
内側は無地の朱塗り、外側は堆朱で草花の彫りがあり、花が6つ、蕾が3つ。香台の外側は雷紋、香台の内側は無地で黒く、少し当たり(傷)がある。
高さ1寸3分1厘(約3.9cm)、直径5寸8分強(約17.6cm)、内側の平らな部分(鏡)3寸7分(約11.2cm)、香台の直径3寸3分5厘(約10.1cm)、香台の高さ4分1厘(約1.2cm)、重量34匁2分(約128g)
袋:茶色地の純子で唐花紋、裏地は萌黄色の無紋の絹、組み紐は紫色
箱:桐材の白木、薬籠蓋、紐付きの環(金具)、4分の1の金摺り剥がれ、花菱の座(金具の土台)に所々損壊あり。
「ふしなすひの盆」
一添茶杓:利休作、共筒(作者自作の筒)
長さ5寸6分強(約17cm)、重量4匁(約15g)。節の下をへらで削り、剣先(先端)を鋭く削っている。節の上下に斑(模様)がある。
「利休作」
箱の書付:「利休ふしなすひ茶杓」
一総箱:桐材の白木、紐は木綿の真田紐
「富士茄子」

雑記
弘治3年(1557年)5月1日、京の祐乗へ
(ページ数:232)

富士 茄子
錠前の図

一富士茄子
一枇杷の絵(牧谿筆)
一富士茄子 又五郎と久政の二人
土は薄く、紅梅色や赤みを帯びている。釉薬は赤みを帯びており、濃い柿色か掛け合わせの色の釉薬で、糸切りの跡がある。
(松屋筆記より)

永禄12年(1569年)己巳 2月27日、そもそも宮中の御所が荒れ果てて正体もない状態であるため、これを修理するようにとのこと。しかし、信長には金銀や米銭が不足しているわけではないため、これについては唐物などの天下の名物を召し上げるという掟が出された。まず、
一、上京の大文字屋が所持する「初花」
一、祐乗坊の「富士茄子」(以下略)
(信長公記より)

元亀2年(1571年)8月12日、信長公の茶会記
信長殿が岐阜の出城(お城)でお飾りになった。
三度目の床の間に、丹島の絵(牧谿筆)と、前にはカブの形をした花のない花瓶を卓(台)の上に置いた。花は如圭が所望して二色の花を入れた。この時、香を空焚き(香木を直接焦がさない焚き方)された。花と鳥(の絵)の縁で取り合わせたのだと、信長自らが言った。盆に富士茄子、浅見天目(茶碗)を貝の台に据えていたとのこと。
(旁求茶会記より)

富士茄子、京の医師である道三のところにある。
(東山御物内別帳、天正名物記および茶器名物集より)

天正元年(1573年)9月18日、医師・道三の茶会、ただし紫野の道閑の座敷を借りて行われた。
一、富士茄子 一、蓼冷汁天目
人数:宗易(千利休)、宗及(津田宗及)、宗二(山上宗二)

天正3年(1575年)7月3日朝、京の道三の茶会
客:宗及、万代屋新太
床の間に大燈国師の墨蹟を掛け、水屋の間に退けておいた。
一、ふしなすび(富士茄子)、袋に入れて四方盆に載せ、蓼冷汁の黄天目茶碗、
黒い台に小板、浄張(釜)、吊り下げの五徳。
お茶は宗及が点てた。袋は広東。
(津田宗及茶湯日記より)

天正11年(1583年)3月18日朝、道三の酒宴の会
客:宗及、恵己
一、お茶の前に、ふしなすびを四方盆に載せて。広東の袋。
一、蓼冷汁天目 尼崎台
宗及がお茶を点てた。
このなすび(茶入)を再び見たが、以前よりもさらに見事であった。形は言葉で言い表せないほど素晴らしい。口の作りは薄くて悪い(粗末だ)。土も釉薬も粗雑である。帯状の筋が二本ある。
(津田宗及茶湯日記より)

天正15年(1587年)2月4日朝、上京のうらいつしむ(人名か場所か)にて
一、至柏の茶会 客は宗溝一人
二畳半の茶室の床の間に茄子茶入。袋に入れて四方盆にしている。四寸ほどの水屋の間で、茄子の袋を脱がせて盆に載せているとのこと。
富士茄子は高さ1寸9分半、底の広さも9分半。口の付け根に筋が二つあり、また肩から少し下に一つ、腰から下に大きな帯状の筋が一つあり、鮮やかである。土は赤みを帯びていて、釉薬が剥がれたその内側は黒っぽくなっている。釉薬は飴色で黒いようであり、白や黄色になるように、おぼろげに銀のように見える。正面になだれが一つあり、横にも下にもある。また釉薬の上に白のようになだれて、両方の肩から一箇所に寄っている。右の方に釉薬が掛かっていない部分がある。裏の方に2分ほどの少し長い石のようなもの(ひっつきか)がある。底は糸切りである。釉薬の掛かっている高さは3分ほどである。袋は広東で、これは通常の広東とは変わっている。この類のものは天下に三つあると雑談した。口のつくり(縁)によって、横に三本通り筋があり、中くらいの大きさである。その内に白く一筋ずつ二本通っている。裏はこび茶色(濃い茶色)、組み紐は浅黄色である。
(宗湛日記より)

天正15年(1587年)10月朔日(1日)、北野大茶湯への出品
今小路道三の所持
一、目黒達磨 一、富士茄子 一、蓼冷汁天目
(京都北野神社蔵 北野大茶会図より)

慶長丁酉(2年、1597年)11月13日、内府(徳川家康)が大津へ赴いた。宰相殿(前田利家)は畠山御所が所持していた肩衝茶入を、この度太閤(豊臣秀吉)から拝領したということで、今朝これを見た。お茶の後、書院でくつろぎ、その次に食事があり、度重なるもてなしを受けた。その後長く座っていたが、私は先に立って殿中へ行った。香黄(人名)が御前へ行き、文梨小壺を内府へ贈り、富士茄子を加賀亜相利家が拝領した。台子での茶の湯がふさわしいであろうと仰せ出されたとのこと。
(帝大史料本 僧承兌日用集より)

一、翠竹院にて、一帖半四尺の床の間 客は利休
富士茄子に茶を入れて点て、床の間へ利休が上げるようにと申したので、掛け軸の脇へ上げたとのこと。珍しいことであると。
(松屋日記より)

富士茄子
寛永6年(1629年)己巳 正月11日
一、京の翠竹院は道三の孫であり、利休から直接教えを受けた(直伝)人物である。
掛け軸のある肩衝の床の間へ上がる云々(中略)
右(の人物)へ富士茄子を所持していた時、利休に習っていたのである。茄子は太閤様(秀吉)へ献上したとのこと。
(松屋日記より)

翠竹(医師の道三)が昔、富士茄子を持っていた時、堺に住む吉屋宗無と薩摩屋宗二の二人が、京の所司代である楮善院に頼み、翠竹の茶を所望したため、茄子茶入に茶を入れた。点て終わって客が茶入を乞うて拝見した(中略)。宗易(利休)へいつもの朝食の時に納屋宗及と翠竹の二人が参り、品々について様々な話があった。日本の名物についての詮索があり(中略)、天下で最上の茄子茶入は、作物(つくも)、小茄子、松本茄子、富士茄子のこれら四つであると言ったとのこと。
(松屋日記より)

富士茄子。道三(が所持し)、今は京の祐乗坊にある。縦1寸9分半、横2寸3分、底9分半、口径9分、膨らみ7分半。釉薬は飴色の釉薬か、濃い柿色であり、赤く丹(朱色)に見える。掛け合わせの色釉薬である。土は薄い紅梅色である(茶入の図あり)。
(万宝全書より)

曲直瀬道三の伝記(逸名)
曲直瀬道三、字は一渓。京の柳原の人である。生まれつき聡明で群を抜いており、子供の頃に近江(江州)の天光寺に入り、心経や法華経、楞厳呪を学んだ。13歳で相国寺の蔵集軒に入り、等請と号し、三体を学び、山谷や東坡などの詩を読み、すべてを暗記した。学問は日に日に進み、25歳で初めて医書を見て、素問(医学書)を学び受けた。道三、諱(いみな)は正盛、鈗翁と号し、また支山人と称した。明(中国)に留学すること12年、李朱の学問を伝えて帰国した。一渓はここから医道に尽力し、数年遊学し、五運六気の説や、七方十剤の法に至るまで、極めないものはなく、その奥義を尽くした。学業に通じた後、京に帰った。光源院(足利義輝公)が彼を幕府に招き、恩遇を受けた。病気があれば薬を献上し、必ず速やかな効き目があったため、恩賞として富士茄子、碾壺(すりつぼ)、および蓼冷汁の茶碗を賜った。また、毛利元就の長年の病気を治して完治させたため、西海(西国)に名を知られた。天正2年(1574年)、正親町天皇から詔が下り、御所に召されて診察し、法印の位を授けられた。その他、人命を救った功績は数え切れない。文禄4年(1595年)、享年89歳で亡くなった。生前に著した『啓迪集』全9集、『授蒙』、『聖功』、『医工指南』、『針灸集要』、『試験』、『神術』などの類が記録として残っている。『自謙』、『袖珍』、『正心集』、『摘英集』、『要語集』、『切紙』など若干部ある。『啓迪集』はかつて天皇の叡覧を経ており、勅使の禅僧・策彦が序文を作った。苦労を知るとはいえ、院号「翠竹」を賜ったことは、医学の門における栄誉ではないか。門人は数百人にのぼり、多くが諸国に仕え、その中で幕府の官医となり、世に名を知られた者も数多く、盛んであると言える。丹渓の遺流を一渓に汲み、温熱相火を曲直瀬に満たした。ああ、実に徳を食む(享受する)、翠竹は医学界の鳳凰である。
(五弓久文編『事実文編』より)

富士茄子、加州公(前田家所持)。
(御物御道具記より)

富士茄子、松平犬千代(前田利家)。
(古名物記、玩貨名物記より)

富士茄子、唐物小壺、大名物、松平犬千代。
(古今名物類聚より)

貞享2年(1685年)4月晦日(月末)、記録一冊を出された。その記録に、富士茄子の茶入を秀吉公より広徳公(前田利家)が拝領したということがあり、兵部新左衛門らに見せるべきである、確かな記録であるので、御道具由来帳にも書き載せておくのが良いとの仰せがあった。記録には、「慶長2年(1597年)11月13日、内府公(徳川家康)へ文茄小壺を、加賀亜相・利家へ富士茄子茶入を賜り、喜ばしいことであったとの仰せが出た」とある。
(室鳩巣著『可観小説』より)

慶長2年(1597年)11月13日、茶壺を前の関白・秀吉から受け取る。壺は富士茄子と称し、世に稀な宝器である。
(加賀藩史稿 広徳公・前田利家の条)

前田利家(犬千代、筑前守、広徳院)。これより先、太閤(秀吉)はしばしば利家の邸宅を訪れ、一族への厚情が最も深かった。末野の茶壺、富士茄子の茶入、ならびに三池小伝太の太刀、および貞宗、水に降る雪などの刀を授けられた。
(寛政重修諸家譜より)

富士茄子 唐物 大名物。名物記に出ている。豊臣公(秀吉)所持。天下の四つの(名物茄子の)うちの一つ。土は淡い赤色で、下掛けの釉薬は飴色、上掛けの釉薬とともに盆付(底の接地部分)に糸切りがある。上掛けの釉薬は蛇蝎(だかつ:蛇の鱗のような模様)に変化して左右から垂れ、盆付までかかっている。置形(正面)の右の方、盆付から7分5厘上がったところに火間(釉薬のかかっていない部分)がある。帯状の筋が一筋あり、その帯がはっきりと見えるところが5寸8分5厘(の長さ)。胴の帯より上方に微かな筋が二本あり、口の作りの内側に一節ある。
(前田侯爵家道具帳より)

富士茄子 中国製(漢作)。高さ2寸、胴径2寸4分、口径9分、口の高さ1分5厘。御物袋は浅黄色の紋絹、紐は茶色。挽家(ひきや)は紫檀で内側は黒塗り、袋は白革、緒は紫色。箱は桐の野郎蓋(印籠蓋)、紐は茶色。「富士 茄子」と宗甫(小堀遠州)の筆。上箱は桐の四方桟、春慶塗で鉄の金具、書付は金粉。袋は燻べ革、緒は紫色。蓋の裏の張紙には「漢の富士茄子。太閤様から広徳院様(前田利家)が拝領し、その他由来がある」。袋は3つで、純子の剣先、漢東の上(2つ)。漢東の上の添盆は四季盆、ふしなすびの盆(図は省略)、内側は朱の無地でかいみ(?)である。裏の模様は菊や牡丹などの花が四種類あり、地色に黄色などが見える。直径5寸8分、高さ1寸3分、香台の高さ4分、同直径3寸4分。添茶杓は、節より下に竹の皮がない。筒は利休作。箱は「利休 ふしなすひ茶杓」(茶入の図は省略)。釉薬は茶色で、全体に梨子地のようななだれがあり、薄黄色で金属的な光沢(金気)のようである。土は細かく、色は浅黄色で赤みがある。糸切りは細かくて見分けがたい。置形の胴の帯の下、右側に一箇所火間がある。
(前田家御蔵品下留より)

伝来
もとは足利将軍・義輝の所持であり、これを名医である曲直瀬道三に賜ったが、道三はこれを京都の祐乗坊に与えた。松屋筆記には弘治3年(1557年)の京の祐乗坊の茶会にこの茶入の記事が載っている。次いで永禄12年(1569年)2月27日、織田信長が上洛した時、大文字屋から「初花肩衝」を、祐乗坊から「富士茄子」を召し上げ、元亀2年(1571年)8月12日、岐阜城の茶会にこの茶入を飾った。信長が亡くなった後、この茶入は再び道三の手に戻り、天正元年、同3年、同11年に彼自身の茶会で使用され、同15年10月1日の北野大茶湯に出品された。その後、道三の孫である翠竹がこれを豊臣秀吉に献上し、慶長2年(1597年)11月13日、秀吉はさらにこれを前田利家に賜り、それ以来加賀藩前田家の宝物となった。昔、加賀藩においては、この茶入と「浅茅肩衝」を秘蔵中の秘蔵として、簡単には人に拝見させなかった。小堀宗中がかつてこれを見ようとして長く加賀に滞在したが目的を果たすことができず、やむなくある人が所持していたその図録を借りて見て、江戸(東)へ帰ったと言い伝えられている。

実見記
大正8年(1919年)11月25日、東京市本郷区本富士町の前田利為侯爵邸にて実際に拝見しました。
口は引き締まって薄作りであり、内側への折り返しは普通で、作りは極めて精巧である。甑(こしき)の際と肩の先に藍色で沈んだ筋が各一本あり、そしてやや太い沈んだ筋が腰の間にあって、茶入の約8割ほどをぐるりと回っている。全体に飴色の釉薬が美しく、置形(正面)には青白い蛇蝎(だかつ)のような釉薬がムラになって掛かり、底の土が見える境界に至って止まっている。この置形の中央、裾の辺りに小さな火間(釉薬のかかっていない部分)があり、また胴には5分ほどの横に長い土の付着(ひっつき)がある。腰の筋の下に青白い釉薬の飛び散った模様があり、釉薬の留まりはやや低く、裾から下の底の周りには糸切りと同じようなヘラで削った筋があって、朱泥色(赤っぽい茶色)の土を見せている。底は中央がやや擦れて、糸切りの跡が一部不鮮明なところがあるが、その糸切りが見えるところは、自然とハマグリの貝殻のような模様をなしている。大体の釉薬の色や景色は「国司茄子」と似ており、光沢が美しく、姿が優美で、極めて上品な茶入である。内部の口の周りは飴色の釉薬、それより下は水釉(薄い釉薬)が全面に掛かっていて、ろくろの跡が深く回り、底の中央に至って大きな渦を巻いている。まさに唐物茄子茶入の中でも最も優れたもの(白眉)であり、どの点においても「富士」という名称がこの茶入にふさわしいことがわかる。

【原文】

富士茄子

漢作 大名物 侯爵 前田利爲氏藏

名稱
此茶入の景色に於て特に富士山に髣髴たるものなし、左れば世上に數ある茄子茶入の上に富士山の如く高く秀出するを頌せし名なるべきか、或は世に云ふ、一富士二鷹三茄子の故事に思ひ寄せて此名を選みし者ならんか、姑く疑を存して後考を俟つ。

寸法
高 壹寸九分五厘
胴徑 貳寸參分五厘
口徑 九分
底徑 壹寸又九分五厘
甑高 壹分七厘
重量 拾八匁

附屬物
一蓋 一枚 無窠
一御物袋 淺黄紋羽二重 緒つがり 遠州茶
一袋 五つ
純子劔先中
同 廣東解袋
同 廣東 上 裏茶海氣大破損 緒つがり 藤色
毛流段織廣東 裏茶海氣 緒つがり 紫
八左衞門廣東解袋
一袋箱 桐 白木
一箱に入る
一箱に入る
一木形 桐製 一個 胴に書付富士茄子
一挽家 鐵刀木 天一文字 内黒本塗
袋 鹿もみ革 緒つがり 紫
一内箱 桐 白木 表書付遠州 裏書付張紙

富士 茄子


富士茄子
從太閤樣
其外由來有之拜領
廣徳院御
袋 くすべ革 緒つがり 紫
(備考)廣徳院は前田利家なり
一外箱 桐 春慶塗 書付金粉 宗甫 錠前附
富士茄子
一添盆 四季盆
内無地朱 外堆朱彫草花花六ツ蕾三ツ、香臺外雷紋香臺内無地黒少しくあたりあり。
高壹寸參分壹厘 徑五寸八分強 内鏡參寸七分 香臺徑參寸參分五厘 香臺高四分壹厘 重量卅四匁貳分
袋 茶地純子唐花紋 裏萌黄無紋絹 緒つがり 紫
箱 桐 白木 藥籠蓋緒付環四分一金摺剥花菱座片々損、
ふしなすひの盆
一添茶杓 利休作共筒
長五寸六分強 重量四匁 節下をへととりへけさきる劔先、節上下に斑あり。
利休作
箱書付「利休ふしなすひ茶杓」
一惣箱 桐 白木 紐木綿眞田
富士茄子
雜記
弘治三年五月一日京祐乘へ
二百三十二

富士 茄子
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錠前

一富士茄子
一枇杷繪 牧溪
一富士茄子   又五郎 久政 二人
土薄、紅梅赤目なり、藥あかめ、濃柿か掛合色藥に糸切。
(松屋筆記)

永祿十二年己巳二月二十七日、抑も禁中御廢壞無正體之間是又可被成御修理之旨云々然而信長金銀米錢御不足無之間此上者唐物天下の名物可被召置之由御掟候、まつ
一上京 大文字屋所持の 初花
一祐乘坊の    富士茄子(下略)
(信長公記)

元龜二年八月十二日信長公茶會記
信長殿岐阜御出城御飾
三度目御床に丹島の繪 牧溪筆、前蕪無花瓶、卓に置て、花は如圭に所望にて花二色入、此とき空燒せらるゝ、花鳥の縁に置合と、信長自言なり、盆に富士茄子、淺見天目、貝の臺に据て云々。
(旁求茶會記)

富士茄子 京の醫師道三にあり。
(東山御物内別帳、天正名物記及び茶器名物集)

天正元年九月十八日醫師道三會 但し紫野道閑の座敷を借りて
一富士茄子 蓼冷汁天目 人數 宗易 宗及 宗二

天正三年七月三日朝京の道三會
宗及 万代屋新太
床に 大燈墨蹟かけて、手水間にのけられて、
一ふしなすび 袋にかけて、方盆に蓼冷汁黄天目、
黒臺に小板に淨張、釣物五徳
茶宗及たて申候、袋かんとう。
(津田宗及茶湯日記)

天正十一年三月十八日朝道三ノしゅゑん會
宗及 惠己
一茶の前にふしなすび四方盆に、廣東の袋
一蓼冷汁天目 尼崎臺
宗及茶を立候
此なすび再見候、前より猶以見事也、形り言語道斷、口のつくり薄く惡候、土、藥もそざう也、帶二筋あり。
(津田宗及茶湯日記)

天正十五年二月四日朝上京うらいつしむ
一至柏御會 宗溝一人
二疊半床に茄子、袋に入四方盆にするて、四寸あるろり手水の間、茄子袋ぬがせて、盆にするて云々。
富士茄子は高壹寸九分半、底の廣さも九分半、口付の筋二ツ又肩よりそほ下に一つ、腰より下に大に帶一つあり、あざやかなり、土赤めにしてはげて其内黒めにあり、藥は飴色黒きやうにして、白黄なるやうに、おぼろに銀の如く見ゆるなり、面になだれ一つ、そばにも下にもあり、又藥の上に白のやうになだれて、兩の肩より一處による、右の方に藥懸はづしあり、裏の方に二分ほご小長く石まあり、底糸切なり、藥の懸高さほど三分ほどにあり、袋は廣東なり、是常の廣東にかはり候、此類天下に三つありと雜談なり、口のつかりによりて、横に三通に筋あり、中大なり、其内に白く一筋づゝ二通にあり、裏こび茶なり、緒つがり淺黄なり。
(宗湛日記)

天正十五年十月朔日、北野大茶湯出品
今小路道三所持
一目黒達磨 一富士茄子 一蓼冷汁天目
(京都北野神社藏北野大茶會圖)

慶長丁酉(二年)十一月十三日、内府赴大津宰相殿畠山御所持肩衝、今度自大閣御拜領、今晨見之、茶後於書院温鈍、其次有飯、重疊之展待也、其後坐久、予先立座到殿中、香黄赴御前、文梨小壺被贈内府、富士茄子加賀亞相利家拜領、臺子茶湯可然之由、被仰出也。
(帝大史料本僧承兌日用集)

一翠竹院 一帖半四尺床 客利休
富士茄子に茶を入て立て、床へ利休御上げ候やうにと申せば、軸脇へ上て云々、奇特なる事哉云々。
(松屋日記)

富士茄子
寛永六年己巳正月十一日
一京翠竹院道三孫なり、利休直傳なり。
繪 肩衝床へ上らる云々(中略)
右へ富士茄子所持申時、利休に習候つるなり、茄子は太閣樣へ上げ申由。
(松屋日記)

翠竹(醫師道三)古へ富士茄子を持し時、堺住吉屋宗無、薩摩屋宗二、此兩人京所司代楮善院を頼み、翠竹茶を所望に付、茄子に茶を入る、立終つて客より茶入こひ出し見る(中略)、易へ常の朝食に納屋宗及と翠竹と兩人參る、品々さま/”\御咄有之、日本國の名物共のせんさく有之(中略)天下に上々の茄子は、作物、小茄子、松本茄子、富士茄子此四つなり云々。
(松屋日記)

富士茄子 道三、今京祐乘坊にあり、竪一寸九分半、横二寸三分、底九分半、口九分、膨七分半、藥は飴藥か、濃柿なり、赤く丹に見ゆるなり、懸合色藥なり、土薄紅梅なり(茶入圖あり)。
(万寶全書)

曲直瀬道三傳 逸名
曲直瀬道三字一溪、京城柳原人也、生頴敏異群、兒甫入江州天光寺、習心經法華楞嚴呪、十三歳入于相國寺藏集軒、號等請、體三讀詩山谷東坡等詩、悉諳記焉、學日進、二十五歳始見醫書道而受讀素問也、善道諱三喜、號鈗翁、又稱支山人、入大明留學十有二年、傳李朱之學而歸者、一溪自是肆力醫道從游數歳、到五運六氣之説、與七方十劑之法、盡無不窮、其底蘊矣、業通而後歸京光源院足利義輝公招致幕府有恩遇、有疾則上藥、必有捷効、恩賜富士茄子、碾壺并蓼冷汁茗甌、又治毛利元就夙疾、而痊、顯名於海西、天正二年正親町帝下詔、召便殿奉診御脈、發法印位、其他全活之功無算焉、文祿四年享年八十九卒矣、平生所著啓迪集、全九集、授蒙、聖功、醫工指南、針灸集要、試驗、神術類、可有録、自謙、袖珎、正心集、摘英集、要語集、切紙等若干部、啓迪者嘗經寂覽、勅使禪僧策彦、作序、改雖知苦、賜院號翠竹、不亦醫門之榮乎、門人數百人、多仕列國、其中爲幕府官醫、鳴于世者數輩、可謂盛也、掏丹溪遺流於一溪、滿涴温熱相火於曲直瀬也、吁食實徳、翠竹醫林之鳳乎。
(五弓久文編事實文編)

富士茄子 加州公。
(御物御道具記)

富士茄子 松平犬千代。
(古名物記、玩貨名物記)

富士茄子 唐物小壺 大名物 松平犬千代。
(古今名物類聚)

貞享二年四月晦日、記録一册御出し被成、御記に富士茄子の茶入秀吉公より廣徳公(前田利家)御拜領之事有之候て、兵部新左衞門等へ爲見可申、慥成記に候條、御道具由來帳にも書載置可然之旨被仰出候、記録に云、慶長二年十一月十三日、内府公へ文茄小壺加賀亞相利家へ富士茄子茶入賜之、嘉子之可然之旨被仰出と云々。
(室鳩巣著可觀小説)

慶長二年十一月十三日、茗壺を前關白秀吉に受く、壺、富士茄子と稱し、希世の寶器たり。
(加賀藩史稿廣徳公前田利家の條)

前田利家(犬千代 筑前守 廣徳院)是より先き太閤屡々利家が邸に臨み、眷屬最も厚し、末野の茶壺、富士茄子の茶入並に三池小傳太切、及、貞宗、水に降雪等の刀を授けらる。
(寛政重修諸家譜)

富士茄子 唐物 大名物 名物記に出づ、豐公所持。四つの内土淡赤下藥飴、上藥共盆付糸切、上藥蛇蝎に變りて左右より垂れて盆附までかゝる、置方右の方盆付より七分五厘上りて火間あり、帶一筋、其帶著明なる所五寸八分五厘、胴帶より上方に幽微なる筋二本、口作内方一節。
(前田侯爵家道具帳)

富士茄子 漢 高二寸、胴二寸四分口渡九分、口高一分五厘、御物袋、淺黄紋絹、紐茶、挽家紫檀内黒塗、袋白革、緒紫、筥桐野郎蓋、紐茶 富士 茄子 宗甫筆、上筥桐四方さん春慶塗鐡金具、書付金粉袋ふすべ革、緒紫、蓋裏張紙、漢富士茄子 從太閤樣廣徳院樣御拜領其外由來有之、袋三ツ、純子劔先、漢東上二、漢東上添盆四季盆、ふしなすびの盆圖略、内朱無地かいみなり、裏模樣菊牡丹等の花四種あり、地黄など見ゆる、徑五寸八分高一寸三分、香臺高四分、同渡り三寸四分、添茶杓、節より下竹の皮なし、筒 利休作 箱 利休ふしなすひ茶杓、茶入圖略、藥茶色、總體梨子地なだれ薄黄色にて金氣の如し、土こまか、色淺黄に赤みあり、糸切細く見分がたし、置方胴帶の下右側一所火間あり。
(前田家御藏品下留)

傳來
元足利將軍義輝の所持にして、之を名醫曲直瀬道三に賜ひしが、道三之を京都の祐乘坊に與へたり。松屋筆記に弘治三年京祐乘坊の茶會に此茶入の記事を載す。次で永祿十二年二月廿七日、信長上洛の時、大文字屋より初花肩衝、祐乘坊より富士茄子を召上げ、元龜二年八月十二日、岐阜城の茶會に此茶入を飾り、信長薨後此茶入再び道三の手に歸り天正元年、同三年、同十一年同人茶會に使用せられ、同十五年十月朔日北野大茶湯に出陳せらる。其後道三の孫翠竹之を秀吉に獻じ、慶長二年十一月十三日、秀吉更に之を前田利家に賜ひ、爾來加州家の寶物となる。往時加州家に於ては、此茶入と淺茅肩衝とを秘藏中の秘藏として、容易に之を人に示さず、小堀宗中嘗て之を見んとして久しく加賀に滯在せしも其目的を達するを得ず、已むなく或る人の所持せる其圖録を借覽して歸東したりと言ひ傳ふ。

實見記
大正八年十一月二十五日、東京市本郷區本富士町前田利爲侯邸に於て實見す。
口締り薄手にて括り返し尋常、作行極めて精巧なり、甑際と肩先に藍色沈筋各一線あり、而して稍太き沈筋一線腰間に於て茶入約八分通りを繞る。總體飴色釉麗しく、置形青白き蛇蝎釉ムラ/\と掛り、底土際に至りて止まる。此置形中裾の邊に於て小さき火間あり、又胴に於て五分許の横長きヒッツキあり、腰筋の下に青白釉の飛び模樣あり、釉止り稍低く、裾以下底廻りに絲切同樣の箆筋ありて、朱泥色の土を見せ、底は中央稍磨れて、絲切一部不鮮明の處あり、而して其絲切の見ゆる處は、自から蛤貝状を成せり、大體釉色景色、國司茄子と相類し、光澤麗しく、容姿優美にして、極めて上品なる茶入なり。内部口廻りは飴色釉、夫れより以下は水釉全面に掛りて轆轤目深く繞り、底中央に至りて大渦を成す。蓋し唐物茄子茶入中の白眉にして、何れの點に於ても富士の名稱の此茶入に適當するを知る可きなり。

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