硯の水入であります。
硯滴・水丞・水虫・水中丞などともいいます。
中国では昔は銅でっくり、後世は陶磁でつくりました。
象形の製ははなはだ古い。
瓊滴亀滴の由来は極めて古い。
明甕には誹竜・宝象などの形状が多いようです。
およそ東洋の諸国を通じて文房具のうち種類と数とが最も多いものであるようで、各家庭に入っているものですから、その変化も極めて多く、さまざまの意匠はそれぞれ鑑賞に値します。
陶磁の水滴は大別して、風穴と水穴との二口を持ったもの、急須型のもの、驚首で水を汲み出す一口のものの三種であるでしょう。
朝鮮語ではヨンチョクといい、水滴・硯滴・水碓・水注・玉婚蛛などの字を当てます。
李朝の水滴の形状はわが国のものに比べてはるかに種類が少ないようで、丸彫りの魚・唐獅子・烏・亀・桃・牡丹・住家・祠堂・金剛山などをみるほかは総じて幾何学的な形状であります。
高台のあるもの、足付のものが少なくないようです。
大きさは化粧用の水滴という径3cmに満たない小さなものから児頭ほどの大きさまで各様であります。
どれも牛乳にも似た暖かい釉をかぶり、白磁のものもなくはないがおおむね染付もので、その発色は中国のそれのように鮮明華麗なものはなく茫漠標瀞の感があります。
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文様もまた簡素のうちに自ら沈幽の趣を察すべきものが決して乏しくないようです。
さまざまの文様があるようで、また文字を記したものがあります。
また稚拙な線刻のあるものがあります。
おおむねすべての点において粉飾を凝らさず単純率直で、実用の立場を離れないのを特色としています。
わが国の水滴は昔は木竹製・金属製もありましたが、陶磁のものを普通とし、近年美濃・瀬戸方面から発掘されたものには意匠のすぐれたものがあります。
中には鎌倉時代あたりの銅器を模したかと思われる高貴な香りのあるものを見受けます。
脇本楽之軒は「伝世のものにては三河内を最とし伊万里薩摩など之に次ぐべし」と評しました。
瀬戸の磁器以前の陶器の水滴は、他の日本ものがおおむね繊細可憐なのに対しただひとり素朴・稚拙・鈍重の感に満ち、まさに李朝のそれと比べ得ます。
釉薬はだいたい灰釉で、また飴釉のもの、黄瀬戸、志野釉のもの、織部釉のものなどがあるようで、これに鉄砂をあしらって効果を上げたものなどいろいろであります。
形は豆腐形が最も多く、意識的にその底面を上面よりやや広くつくり安定感を出しています。
模様は磁器のものに比べて簡素・豪快・無邪気の感があります。
模様で最も多いのは竹に虎・梅などであります。
その形状において文様においてまた色彩において、その意匠が最も多様であるようで、ある時代の瀬戸焼の水滴は他のどのやきものよりも優雅であるといえます。
のちに磁器が出てその製はやや少なくなったようですが、多年の製が急速に滅んだとも思われませんので、江戸時代末期まで盛んに焼かれたのであるでしょう。
文化(1804-18)に至って瀬戸に磁器が出ました。
磁器はおおむね染付で、その形の多くは豆腐形であります。
その他の形もあるが陶製のものに比べて変化に乏しいといえましょう。
模様は波上鶴・波千烏・二見浦などでいちいち挙げ得ないようです。
明治時代に入ると二重橋・電灯電線などを銅版で染付けたものがあります。
色絵ものは形・図案ともに染付と同じでありますが、新しいものに連隊旗・海軍旗などの色絵ものがあります。
おそらくは水滴需要時代の最後期のものであるでしょう。
北九州の水滴はすべて磁器であります。
陶器のものが非常にまれなのは奇怪であります。
三川内(長崎県佐世保市)のものには染付・色絵もあるようで、また白磁に陽刻を施したもの、白磁の形状の意匠を凝らしたものなどがあります。
三川内の染付ものは瀬戸のものよりはるかに精巧で、浮彫を施したものはその隆起が極めて高く、掌中の愛翫とすべきものが少なくないようです。
伊万里の色絵ものは瀬戸のそれと異なる点がありませんが、時には極めて大きなものがあります。
その他全国各地の窯で極めて多く焼かれたことは論ずるまでもないようです。
概論すれば、大量生産の結果磁器のものはおおむね平凡な形となり、近代に入ってペンと洋紙の時代となり水滴の需要はほとんどなくなるに至りました。
(『嬉遊笑覧』『飲流斎説甕』『壷』『茶わん』二九)