わが国の先史時代の土器。
装飾に縄文を用いたことからこの名が付いました。
しかし縄文を付けていない縄文式土器も多いようです。
特に西日本の新しい縄文式土器には縄文がみられないようです。
いっぼう東日本では弥生式土器・続縄文式土器などにも縄文を盛んに使用しています。
したがって文様としての縄文の有無はただちに縄文式土器であるかどうかを認定する基準にはならないようです。
縄文式土器を使用した地域は、北は北海道から南は沖縄に及んでいます。
縄文式土器を用い、先土器(無土器)時代に後続し弥生式時代に先行する時代を縄文式時代、その文化を縄文式文化と呼んでいます。
縄文式時代から弥生式時代への移り変わりに関しては、古くは東・西日本で大きな年代差があったとする考えもありました。
しかし現在では全国的にそう大きな年代差なしに移り変わったことに異論はないようです。
縄文式時代の大は石器を使用し、食用植物採取・狩猟・漁携に生活の基盤を置いました。
最近では縄文式時代から農耕を開始したと主張する大もあります。
しかしわが国で農耕が社会・文化を決定的に革新した食糧生産の段階に相当するのは次の弥生式時代であります。
縄文式時代は基本的になお食糧採集段階に留まっていたとみるべきであります。
[縄文式土器の細別・大別]縄文式土器は年代によって大きく変遷しており、また地方によっても異なります。
そこで縄文式土器・縄文式文化の研究は、まずその時間的・空間的最小単位として土器型式を設定し、その年代的序列と地域的分布・異同を確かめる仕事、すなわち編年的研究を基礎としています。
こうして縄文式時代は全国を十数地域に分けた各地域ごとに、まずそれぞれ七〇~八〇の型式によって成り立っていて、これを草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に大別しています。
今や合計一千に達せんとしている土器型式の名称は、それぞれ最初に認定された遺跡の名に基づいて呼ばれています。
その数例を紹介すると、例えば加曾利E式・同B式は、それぞれ加曾利貝塚のE地点・B地点の土器を基準として名付けられた。
諸磯A・B・C式、安行mA・ⅢB・mC式は、諸磯式・安行m式をそれぞれアルファベ。
卜を用いて細分したものであります。
福田C式は福田貝塚の中期の型式、福田Kn式・黒土Bn式はそれぞれ福田貝塚・黒土遺跡の後期二番目、晩期二番目の型式を指しています。
これはすなわち中・後・晩期をロ一マ字で表現した場合のC・K・Bを採用したものであって、一遺跡の材料で多くの型式を設定するに便利な表現として工夫されたものである・。
このように土器型式の命名方法の原理は統一を欠いているがそれぞれの学史を担っていて、ただちに合理的呼称に改名するわけにはいかないようです。
「実年代」縄文式時代終末の実年代は、弥生式時代の始まる頃にもたらされた大陸系文物の年代から、紀元前三百~二百年頃であったことがわかる。
しかしその開始の実年代に関しては極端に異なる二説が対立して互いに一歩もゆずらないようです。
A説は放射性炭素法の計測値をそのまま受け取って紀元前八千年説を承認し、縄文式土器に世界最古の土器としての座を与えます。
この説は放射性炭素法の成果をそのまま鵜呑みにしているきらいがあります。
B説は実年代が想定できる大陸の文物と縄文式時代草創期の文物とを比較して年代を推定し、その開始を紀元前二千五百~二千年と想定します。
この説では年代の明らかな確実な材料が遠くヨ一ロッパに偏在している点が弱い。
東アジアで良好な比較資料を見出したいものであります。
[器種・用途]草創期・早期の縄文式土器は深鉢のみであるようで、特に尖底土器が主体を占めています。
一型式が一つの器種から成り立っていて、しかも装飾がほぼ一種類に限られていることが多いようです。
そしてこれら深鉢土器はしばしば大熱をこうむって変色しています。
このように経文式土器が煮炊きに用いる容器として出発したことは明らかであって、食糧採集民の土器としての性格をよく示しています。
飾った土器のほかに無文の土器を合わせ用いることは草創期にすでに始まっています。
これが特に顕著なのは、瀬戸内沿岸地方における早期の実例であって、土器型式は器壁の薄い小型の押型文土器と、厚手大型の無文土器とによって成り立っている(黄島式土器)。
前期の土器もまた深鉢が大半を占めるが、同一型式の深鉢の中に多くの文様の変化を生じています。
このほかまれに浅鉢があります。
中期の土器もなお深鉢が主流を占めています。
ほかに浅鉢・台などかおり、末には壺が出現しており、深鉢には装飾に多くの変化が認められます。
中期の器種で特に注目をひくのは、口縁部の下に多数の小孔を巡らし、小孔列の下に突帯を巡らした土器であって、これを土俗例やヨ一ロッパの先史例と比較して太鼓とみる解釈があります。
これには酒の醸造用とする異説もあります。
後期に大ると縄文式土器の器種は多様化します。
深鉢・浅鉢に各種変化型が生じ、また注口土器・釣手土器・香炉型土器その他の器種が並び行なわれています。
東北地方では壺がかなり一般化しています。
しかし中でも注目をひくのは煮炊き用の深鉢が他の機能をもった飾られた土器と明確に区別され、装飾性に乏しい器種として確立したことであって、その変遷は系統的に晩期末までたどることができます。
縄文式土器との関連が深い関東北の弥生式土器はいまおくとしても、北九州地方・和歌山県・伊勢湾沿岸地方ではさらに弥生式土器にもその伝統をひく甕が使われています。
晩期に大ると東北日本の亀が岡式土器が多数の器種を擁したことで有名であります。
壺も多いようです。
西日本では深鉢・浅鉢が基本形をなす器種となるが、壺はまれであります。
煮炊きに用いた深鉢以外の器種の用途については、具体的に挙げられるものが少ないようです。
しかし底に多数の孔をもつことによって濾過器としての用途を考えさせる土器(中村孝三郎・寺村光晴「縄文文化に於ける甑様土器」『考古学雑誌』四二ノ一)が存在することは逸することができないようです。
なお土器を棺として使用することは、弥生式土器について有名でありますが、繩文式土器も胎児・新生児の埋葬にしぱしぱ棺として用いられているほか、成大の骨を大れた実例(東北地方後期初頭)があるようで、再葬、すなわち埋葬してのち、骨を集めて再び葬る風習があったと想定されています。
なお亀ヶ岡式の多数の器種と装飾の多様さについては、民俗例を照合することによって呪術・禁忌との結び付きを考える解釈(坪井清足「縄文文化論」『日本の歴史』一)が当てはまると思われる。なお中期末に東北(大木十式)で蓋が出現し、後期には関東・北陸にも広がり、北陸・近畿では晩期にまで残っている。
関東では貝製腕輪を入れて蓋をした土器も出土しており、蓋をもつ容器の使用法の一例を示してい【製作技術】縄文式土器の製作に用いられた粘土は二次粘土が大多数を占めているであろう。混和材としては砂粒が一般に認められる。特殊な混和材としては雲母(関東中期阿玉台式など)があり(ただしこの例は雲母を含む砂を混ぜたといわれ滑石(九州前期曾畑式・中期並木式)・黒鉛縄文式土器(後期)縄文式土器(中期)(岐阜県早期押型文土器)・貝殻片(九州中期阿高式ほか)撚紐(北海道早期ムシリ式)などがある。
植物繊維の混和はすでに草創期前半の微隆起線文土器に始まっている。これとの関連の有無は不明だが、早期後半には微量の繊維混和が開始され(南関東の田戸上層式・子母口式)、早期終わりには東日本及び西日本の一部で(茅山式など)多量の繊維混和が普及し前期に及んでいる。ただし前期の土器に多量に含まれる繊維には走行が器壁に平行するものが多く、これをただちに単なる混和材と同一視することはできない。縄文式土器製作技術の基本は粘土紐積上げによる成形である。そし土器(南関東草創期稲荷台式・早期田戸下層式)をも含めて、底部側から製作を開始し口縁部に及んだものが絶対多数を占める。逆に口縁部からつくり始めたことが明らかな実例は現在まで岩手県の早期後半の土器が確認されているのみである。なお、器体を仕上げたのちに底部を付け方法(近畿北白川下層式)もある。縄文式土器の底部には網代・木の葉などの圧痕を留めるものがある。この他特殊な実例としては鯨の脊椎骨の圧痕を残すものがある。これらはいずれも土器成形の下敷に用いたものと考えられる。ほかに土器の底部に木の葉の形を描いた特殊例も知られている。なお網代底には仕上げの段階でこれを摩り消したものもある。縄文式土器の調整技法として特色をもつのは貝殻条痕である。これはハイガイ・サルボウなどの背に凹凸の多数条がある貝縁でひっかいて調整した痕跡であって、平行した溝が数条走っている。早期後半に出現して主に東日本で普及したが、晩期には西日本にもみられる。
ヘナタリなどの巻貝を横に置いて引きずって付け巻貝条痕がある。溝の中に細線が走る点で先の二枚貝条痕と区別できる。これは西日本で後期末以降晩期初めまで用いられている。縄文式土器の焼成温度は五百~六百度と想定されている。草創期の土器の焼きも堅く、これを中期・後期の土器と比較しても遜色はない。晩期に至るまで特に焼成法の上で進展があったとは思えない。中期の土器が一般に赤褐色を呈するのに対して、後晩期の土器は黒褐色を帯びたものが多い。これは焼成の最終段階に、火をくすぶらせて炭素を器面に吸着させるなどの方法によったものであろう。これ中国新石器時代後半の黒陶の技術と対比して考える人もあるが、両者間には関係はないであろ【装飾】縄文式土器には縄文を飾ったもののほか、各種の沈文・浮文を用いており、時期と地域によってはなはだ大きな変化を生じている。このうち晩期の文様に関してはその施文に際してのルールが究明されている。いっぽう草創期以来まったく文様を飾らぬ土器、すなわち無文土器も存在するが、完全に無文土器のみによって成立してい型式はほとんどない。弥生式土器や世界の石器時代の土器と比較して縄文式土器に特徴的なのは、口縁部が水平をなさず、一個以上十数個に及突起または山形波状の口縁部を形成した土器の多いことである。次に土器のどの部分を装飾するかという点を取り上げると、口縁部付近に限られるものと、体部外面の全面に及ぶものがあり、口縁部内面を飾るものもまれではない。口縁部付近を主要文様とし、以下を縄文帯とする装飾方法も広くみられる。さらに前期の縄文や亀岡式土器の沈文のように底部外面を飾る例もある。普通の沈文・浮文のほかに漆や赤色顔料を表面に塗布したり、それで文様を描いたものもある。赤色顔料は早期(南関東田戸下層式)に使用し始めている。材料は多く酸化鉄であって、水銀朱はまれである。大多数が焼成後に塗っているが、まれに焼成前の塗布例もある(長野県中期・北陸晩期)。漆には黒漆のほか赤漆もある。東北地方の晩期に集中的にみられるが、関東地方の前期についても存在が説かれている。縄文式土器には画を描いたものはほとんどみられないが、動物や人の姿を立体的にしかも抽象化して表現することは時期的・地方的にみられる。土器の突起把手の一部に顔を表現したり、人体(神像?)全体を表現したものがある。手先を三本にした人体、あるいはその手先のみの表現や、蛇の表現は、中部関東の中期土器に特徴的な存在となっている。縄文式土器には特殊な形態をなすものがある。四角形・楕円の平面形をもつ土器、口を二つもつ土器などいろいろある。自然物をなぞらえたものとしてはアワビ・巻貝の形を忠実になぞらえた土器が有名である。
このほか口縁部が円いにもかかわらず底部の四隅が角張った形状の篭製品を模したとみられるものがある(草創期・晩期)。
【破損・修繕】縄文式土器にはひびが入った場合、ひびの線の双方に穿孔し、これを樹蔓などで結んで使用を続けたものがよくみられる。孔はこじあけた例もある(南関東の撚糸文土器)が、多くは石錐を回転してあけている。このほか土器の一部に孔があいた場合、手頃な土器片でその孔を充填しアスファルトで固定した実例が亀岡式土器に知られている。