鹿児島城下竪野にあった薩摩藩の御用窯。
1620年(元和六)島津家久が先代義弘の遺命によって加治木(姶良市加治木町)の星山仲次(金海)を招聘して開窯させました。
伸次は同じく帰化朝鮮人であった申主碩(田原友助)・申武信(田原万助)と共に創業しました。
伸次の没後はその子金和が頭取を命ぜられ父の業を継いでします。
1648年(慶安元)金和の徒弟であった有村久兵衛は光久に召されて碗右衛門の名を与えられ、のちに京都御室窯に赴いて京法を修得して帰り、焼物方の主取役を命ぜられました。
また金貞嘉人・田原次郎左衛門・星山弥兵衛らも名工と称されました。
藩主宗信・重年時代はその保護が薄かったのではなはだ衰微しましたが、1755年(宝暦五)に重豪(栄翁)が封を継ぎ、その長ずるに及んで時流に棹さして製陶を奨励した結果、再び良工が輩出するようになり藩内の陶業は一時に開花しました。
明和(1764-72)末年には河野仙右衛門が妙手として非常に名があるようで、また本多源之助・川田平佐らも良工でありました。
1793年(寛政五)星山弥兵衛の子仲兵衛金臣が藩命を受けて川原十左衛門と共に諸国の陶場を視察し、ついに京都粟田の陶工錦光山から京法を得て、翌年その法により錦欄手を創出しました。
1823年(文政六)長崎に来たドイツ人シーボルトはたまたま薩摩焼を手に入れ激賞しました。
栄翁は特にシ一ボルトに使者を差し向けその説を聞かせ、一層の向上を図りました。
1827年(同一〇)栄翁はさらに重久元阿弥を京都五条坂の仁阿弥道八の陶場に派遣して手法を受けさせました。
元阿弥は帰郷するとすぐに京窯を設け、道八の原料を用いて金焼付を試み、華美な金欄手を創始しました。
ところが斉彬が封を継ぐと磯の集成館に各種の工場を設け、また1853年(嘉永六)新たに錦谷窯場を起こしましたので、竪野焼は次第に衰えてついに廃絶しました。
「製品」初期の作品は、星山伸次の遺法である高麗伝によって微細な貫入のある白陶が多く製出されましたが、その朝鮮風は次第に日本化されました。
当時嘉人が最も有名で、その作である宋胡録・三島手・片身替り・赤焼・黒焼などが今でも残っています。
また田原次郎左衛門は種々の置物を製出し、星山弥兵衛は梅花を付けた置物を案出しました。
なお有名な画家木村探元は嘉人時代にしばしばこの窯に来て画法を教え、そのかたわら自ら上絵付を試みた。
降って重豪時代の作品は、当時の風潮を受け清楚閑雅の趣から一変して艶麗な色彩と画趣が喜ばれ、構図は次第に平凡となり、描線が弱く素地も粗放なものとなりました。
ただ五彩のほかに金銀をも用い、絢爛たる色彩のある画態と柔らかみのある表現が製品の特徴となりました。
なお技術の幼稚であった当時においては、金銀を重厚に掛けて焼成し、のち籾殻で磨き光沢を出しましたので、絵付の部分は素地から一段高く、つまり金高盛と称される手法を用いました。
明治になってからはこれに代わって、金掛けを重厚にはせず、釉薬によって高くしてその上に金付けをしました。
これを台砂盛といいます。
なお元来竪野窯の製品は島津家数寄屋用を主とし、その白陶は御法度のやきものとして固く販売を禁じられましたが、久光の頃から唐千烏印のものだけは分譲を許されました。
(『観古図説』『日本近世窯業史』『薩摩焼総鑑』)