加藤 民吉
尾張瀬戸の磁祖加藤民吉。
名は保堅、一に保賢ともいいます。
初名は松太郎(あるいは松次郎)で、吉左衛門景遠の二男。
瀬戸の陶業は江戸時代中期より著しく衰退し、1773年(安永二)当時は窯家百四十二戸、1804年(享和四)当時には百戸に満たない状態となりました。
藩庁はこれを憂慮し挽回策として窯業世襲制を確立し、従業者を一家に一人と限り、1791年(寛政三)に一家に二人と改め、さらに天明(1781-9)の頃からは世襲以外の新窯はまったく許さず、また従業者が他国に出ることを禁じました。
一方販売方面では瀬戸に御蔵会所を設け、その後加藤唐左衛門の献策を用いて蔵元の制を定めるなど百方助長の策を施しました。
しかしこうした助長策はただ束縛するだけで衰退の勢は依然としたものでありました。
すなわち民吉の磁器の創業はこのような瀬戸陶業の状態から要求されたものというべきで、その功績は実に大きなものでありました。
尾張藩熱田奉行の津金文左衛門胤臣は、熱田(名古屋市)の海面を埋めて新田を開いていましたが、1801年(享和元)に成功し、これを熱田新田と称し諸村の農民を移住させました。
当時陶業の衰微のため瀬戸陶工のうち二、三男はみな遊食していましたので、これらの工人が多く熱田に行きましたが、吉左衛門・民吉父子らも同様にこの中にいました。
たまたま文左衛門が新田を巡視した時農事の下手な一群が目にとまりました。
そこで吉左衛門を引見して尋問しますと、陶業に戸主専業の制があるため、やむなく転業せねばならないと答えました。
そこで文左衛門は吉左衛門に南京焼の処方を教えて瀬戸窯で試焼させ、この間資金・器具などを給与して熱心に後援しましたが、やっとのことで酒盃などの小品数個ができました。
そこで熱田新田の古堤に新窯の地を定め、知多郡欠村(半田市)の窯土を取って来て築窯に着手しようとしましたが、この時文左衛門が病気になりましたので、子の庄七胤貞に代わらせました。
胤貞もまた資金を供給し、器具を購入し、ついに新窯の構築が竣工になろうとしました。
ところがこれより先、吉左衛門が瀬戸の加藤唐左衛門高景を訪ねて津金の企業について相談したところ、唐左衛門は瀬戸村の庄屋で焼物取締役を兼ねていましたので、その子弟が生業を得ることができるのを喜んですが、その反面瀬戸の衰えることを恐れました。
そこで文左衛門の病床を訪ね、その厚意を謝すると共に前途の事情について訴えました。
すなわち瀬戸のほか赤津・品野にも陶窯がありその産出の多いのに比べて需要が少なく、また製造家と問屋との間に紛議もあって販路が閉塞しています。
それゆえ瀬戸生業の困難な旧来の陶器だけでは以後立ち行くことはできないようです。
もしさらに他所において磁器が出るとすれば、瀬戸の旧地は一層困難におちいるであるでしょう。
そこで磁器は陶器よりも利益があるからその新窯を瀬戸に移して欲しいと請いました。
文左衛門はそこでこの新業の計画のために当時の法度に触れることのないような便宜があるかと問いました。
唐左衛門はこれに対して国益と子弟らのために公にこれを出願しようといい、これを代官水野権平に訴えました。
水野は文左衛門を訪ね、一緒に尾張藩の閣老の志水甲斐守らに陳徊し、唐左衛門らに出願させました。
これが許されて新窯を瀬戸に移しました。
かくして1801年(享和元)11月初めて磁器の製造を開始しました。
加藤唐左衛門・吉左衛門・民吉をはじめ、陶業から転じた忠次・藤七・重吉・直右衛門・卯兵衛・勘六・治兵衛・粂八・富右衛門・惣助・彦七・富蔵・弥右衛門・仁右衛門らがその最初の者でありました。
同年初めて磁器用の窯をつくり、以来一、二年間やや進歩をみせましたが、その焼き出すものは普通品だけで精良品をつくり出すには至らなかったため、吉左衛門らは百方精励したがなお精巧の域に進むことができず、しかも吉左衛門はすでに年をとっていましたので、民吉に九州の磁器窯を探見修業させようとしました。
このことを代官水野に請うと藩許があったうえに恩命を拝しました。
そこで西下のつてを求めたところ、肥後国(熊本県)天草の東向寺の天申和尚が愛知郡菱野村(瀬戸市菱野)の人であったことを知り和尚に紹介してもらおうとしました。
そして春日井郡大森村(名古屋市守山区大森)の法輪寺の祖英長老がかつて東向寺僧の旧弟子であったことから、吉左衛門から請うて天中への紹介をしてもらうことができました。
なお愛知郡川名村(名古屋市昭和区川名町)香積院の弟子僧元門が長門(山口県)に行脚するといいますので、民吉は元門と同行を約束しました。
かくして期日を定め代官水野権平に旅費を借り、1804年(享和四)2月22日出発。
長門国下関で元門と別れ、筑後国柳川(福岡県柳川市)、肥後国川尻(熊本市川尻町)に出てついに天草島に到達し、東向寺の天中和尚に面会、祖英の書を見せその志望を告げました。
天中はこれに感動し同島高浜(天草町)の製磁家である植田元作に託しました。
民吉はここで一生懸命技術を習い、同年8月には1日の間に茶碗二百五十余個をつくることができるようになりました。
しかし元作は彩料配合の法などを秘して民吉には教示することを惜しみましたので、民吉はやむなく長崎での祭事を見に行くと偽って高浜を辞去し、ひそかに東向寺に帰り心情を天中に告げ、肥前国(佐賀・長崎県)に行きたいと請いました。
そこで東向寺から一書を与えられて肥前平戸藩の治下にある佐世保村(佐世保市)の西方寺に行くことになりました。
この寺の僧に一書を見せて志望を告げますと、この僧もまた同感して三川内山に紹介しようと、葉行寺村の薬王寺の僧に托して民吉を松浦肥前守の御用焼物師である今村幾右衛門のところに行かせた(12月16日)。
そこに数日いて大いに益するところがありましたが、里正(村長)から他国人を留め置くことはできないとの異議があるようで、民吉はやむなく薬王寺に帰りました。
寺僧はそこで民吉を江長村(佐世保市江永町)の製磁家久右衛門に託し、久右衛門は民吉を賞揚しさらに松浦郡佐々村(佐々町)の親戚の福本仁左衛門に託することとしました。
仁左衛門は感激しただちに民吉をその磁工にした(12月28日)。
民吉は精励し腕前は大いに上がりました。
仁左衛門は良工を得たことを喜び秘訣を伝授しましたので、民吉はさらに一層の勉励を加えました。
仁左衛門はそのため金を与えて民吉を永く雇っておこうとしました。
そして仁左衛門の息子が伊勢神宮に参詣した際、民吉は仁左衛門の委託により息子に代わってその業を担当しました。
その際独力で数窯の磁器を焼くことに成功しましたので、仁左衛門はますます良工であることに感じ入り、民吉の帰国を断念させようとしました。
しかし民吉は自分から未熟だといって定住することを承諾せず、さらに刻苦すること二年、とうとう原料配合などの秘訣に通暁しました。
そこで民吉は帰国させて欲しいと請いましたが、良工を失っては困るというので許諾がなく、重ねて永住を勧められました。
民吉はやむなく日数を過ごしているうちに、たまたま同村の東光寺で大法会があるようで、天草の天中も来会しましたので、民吉は自身の成業と仁左衛門の内意を告げ、その帰国企業についての藩命と仁左衛門の厚恩とを語り、急場の一策として天中和尚に請い天草に帰ってから民吉に向けて帰島を催促してもらいました。
ここにおいて仁左衛門もやむなく天中の書の意向に応じ、しばらく休養して新春に出発するように諭しました。
民吉は感奮しその間も業を続け、1807年(文化四)1月7日仁左衛門のもとを辞去し、西方寺に行き住僧に謝しその成功を告げ、滞在数日で西方寺を去り、有田に行き錦手窯を一見し、また円山に遊びそこの製磁家である堤惣右衛門について三十余日間研究を続けました。
その間幸いにも丸窯の改築があるのに際し、その築造法を見ることができました。
それから天草に渡航して天中和尚を訪ね、さらに植田元作を尋ねて逃亡した罪を謝しました。
元作はこれを了解し互いに製磁の方法を話し合りました。
数日後民吉が去ろうとした時、元作は錦手焼の秘法を賤別とし、彩料配合の処法を手記して与え、さらに口訣をも伝授しました。
民吉は感謝して東向寺に帰りましたが、そこに高浜の磁工二、三人が訪ねて来て民吉について瀬戸に行きたいと請いました。
民吉はその中の一人である惣吉(一に宗吉・惣作)だけを伴い、天中和尚に旅費を借り、1807年(文化四)5月13日天草を出発。
途中肥後国八代郡高田(熊本県八代市)に行き、柳本勝右衛門を訪ねてその陶業を一見し、博多から下関に渡航し、さらに船で大阪に着き、そこから伊勢神宮に参拝して6月18日瀬戸に帰着しました。
民吉が帰ると村人たちは全村をあげて喜び、代官水野権平も満足し、藩主斉朝も非常に嘉賞し7月3日上絵釉と酒肴料を下賜しました。
民吉もその恩義に感激して丸窯をつくり新製の磁器を藩主に献じ、その巧妙なところを賞せられました。
次いで民吉父子および里正唐左衛門に永世苗字帯刀が許され、そのうえそれぞれ三人扶持三口を賜りました。
また津金庄七には父の当初から後援の功で、功分金を年々金百両賜るという恩命がありました。
民吉自作の器には「張」「張州」「尾張」「文化張州造」などの印があるようで、また青花で「享和尾製」「文化尾製」「文化年製」と款したものもあります。
なお当時民吉が用いた青花には、瀬戸山中に産する砂石中に包含するものを焼き、水簸して採り、これを砂絵呉須と称しました。
製法が幼稚なため色沢は奸麗とはいい難いですが、かえって一種の風韻かおります。
1824年(文政七)7月没、五十三歳。
1928年(昭和三)11月従五位を追贈されました。
以上は民吉の事蹟の人要でありますが、瀬戸磁器創業の功は民吉一人だけのものではないようです。
磁器創業は藩の産業開発の計画的方針から始まり、直接には熱田奉行津金文左衛門父子・代官水野権平・里正唐左衛門景高・父吉左衛門景遠らの協力・後援によるものでありました。
その磁法の成功なども、あるいは天明年中(1781-9)に品野の陶家加藤久米八がすでに有田の磁工勇七から法を学んでいたともいい、また加藤忠次は磁器業に転じ民吉よりも先にその法に成功したともいわれます。
しかし民吉が九州の現地に行って粒々辛苦して根底的に磁法を伝えた功は事実であるようで、これを磁祖と称すべきであります。
民吉の伝法で瀬戸は回生し、驚くべき飛躍をとげるに至ったのであります。
その保護制度も一変し、従来の陶業は依然旧制の戸主の業と定め、これを本業窯と称し、磁器の経営はこれを二、三男以下の自由とし、新製窯と称しました。
したがって新製窯は増加し製産がますます盛んとなったので制限を設け、瀬戸・赤津・品野三村の窯数を二百座と定めました。
1816年(文化一三)の調査によれば、窯業者百六十七戸中新製窯八十八戸、1820年(文政三)には新製窯だけで百九十二戸という増加ぶりを示しました。
(『染付焼起原』『陶家宝伝記』『陶器法伝記』『瀬戸村製磁起元誌』『瀬戸陶業史』『瀬戸陶器誌』『瀬戸の陶業』『府県陶器沿革陶工伝統誌』『瀬戸陶磁器沿革書』『工芸鏡』『日本陶磁器史論』『日本近世窯業史』『をはりの花』)※せとやき