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鶴田 純久の章 お話

陶製の瓶で一般に細長く首の締まったものが多く、酒・酢・醤油などを貯えるのに用います。
これには種々の字を当てています。
得利・陶(『運歩色葉集』『易林本節用集』『書言字考節用集』)・曇(『群砕録』)・籤(『物類称呼』)・習・螢・販(『和漢三才図会』)・陶裏(『万宝全書』)・徳裏(『宗長日記』)・土工李(『醒酔笑』)など。
享禄(1528-32)の『宗長日記』に徳裏とあるのでこの語はそれ以前に生まれていたものでしょう。
『和訓栞』に「曇具理の義なるべし、曇は垠と同じく具理は絣なり」といいます。
『大言海』は「酒の出づる音より名とす」といいます。
『朝鮮陶磁名考』は「朝鮮にては甕をトクといひ甕器(やや硬質の瓦器)をト。
クウルというので徳利は朝鮮音の転飢だろう」といいます。
俗説に徳利は、瓶が貧と音が同じであるのをきらって徳の字を用いたものだといいます。
徳利は種々の液体を入れるのに用いられるが主な用途は酒器としてであります。
酒器としての徳利はかつては錫でしたが、のち主に陶磁となりました。
酒の質の向上によって間接爛が大いに行われるようになってから陶磁の爛徳利が喜ばれたのでしょう。
単に容器として爛に用いない通い徳利または貧乏徳利が厚手陶製の大きなもので、丹波立杭焼の黒釉徳利が有名で京阪地方の酒屋で用いられます。
肥前国(佐賀・長崎県)には土焼時代より黒釉の油徳利がありました。
特に有力なのは美濃国高田(岐阜県多治見市)および小名田(同)の酒徳利で、江戸時代から江戸その他各地方で使われ、明治以後はほとんど全国に普及しました。
備前伊部の酒徳利も堅牢で聞こえ、「備前徳利投げてもこわれぬ」といわれました。
また角徳利は保命酒のためにつくられました。
『和漢三才図会』に「南京および朝鮮の作は土軽くして味を変ぜず、備前伊部の産これに次ぎ肥前伊万里の産また佳なり」、『貞丈雑記』には「今徳利と云物を古は錫といひける也むかしはやき物の徳利なし皆錫にて作りたる故すゞと云し也」と記されています。
陶磁の徳利を今でもなお会津・仙台・美濃・四国などではすずといいます。
『守貞漫稿』に「京坂五合一升は此とくりを用ふ貸陶也丹波製也色栗皮の如し江戸五合或は一升に樽と此陶と並び用ふ大小あり号で貧乏徳利と云其謂を知らず貸売とも同前江戸にて用之ことあり白烏と云はくてうと字音に云白玉薬をかける」とあります。
『皇都午睡』に「茶屋より白丁とて白の大徳利云々」とみえます。
『寛天見聞記』に「予幼少の頃は酒の器は鉄銚子塗盃に限りたる様なりしをいつの頃よりか銚子は染付の陶器となり盃は猪口と変じ酒は土器でなければ呑めぬなどといひ云々」、『守貞漫稿』には「京坂今も式正略及び料理屋娼家ともに必らず銚子を用ひ爛陶を用ふるは稀也、江戸近年式正にのみ銚子を用ひ略には爛徳利を用ふ、爛してそのまま宴席に出すを専とす、此陶形近年の製にて口を大にして大徳利口より移し易きに備り銅鉄器を用ひざる故に味美也叉不移故に冷へず、式正にも初めの間銚子を用ひ一順或は三献等の後は専ら徳利を用ふ、常に用之故に銅ちろりの爛酒甚飲難し、大名も略には用之、京坂も往往用之、不遠して京坂是を専用すなるべし」とあります。
酒器はその性質上さまざまの意匠を凝らしたものがあります。
中国の盃類には樽と徳利、徳利と盃と0中間性の酒器があって奇抜さを競い、形は千差万別であります。
わが国の好事家のつくる髪徳利はオランダ人伝来の品を写したもので、京都の木米・道八、讃窯道八、対州窯などに散見します。
鴨の形をした鴨徳利は越中国(富山県)小杉焼のものが特に著名ですが、同形式の鳩徳利と共に各地にあります。
そのほか狸々徳利・浮徳利・鶯徳利など種々の工夫を施したものがあります。
万古焼などのあぶり爛は底をとがらせ灰中に差し込むものであります。
近年イタリア・ギリシアなどの瓶壺に倣った欧風の徳利が多くなりました。

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