富本憲吉 とみもとけんきち

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鶴田 純久の章 お話
富本憲吉作 色絵金彩羊歯文壺
富本憲吉作 色絵金彩羊歯文壺

明治以後に出た最もすぐれた陶芸家の一人。
1886年(明治一九)6月、奈良県生駒郡安堵村に生まれました。
1909年(同四二)東京美術学校図案科(現東京芸術大学美術学部)を卒業後、イギリスに留学しホイスラーやウイリアム・モリスの作品に学び、ビクトリア・アンド・アルバート美術館で工芸への知見を広めました。
この間建築技師新家孝正の助手としてインドに渡り回教の建築装飾に通暁しました。
1911年(同四四)帰国し、東京に滞留していたイギリスの版画家バーナード・リーチを知りました。
1913年(大正二)リーチの作陶の斡旋をするうち自らも故郷で楽焼を試み、版画・染織にも手を染めました。
1915年(同四)本窯を築き創作図案による本格的な作陶へ踏み切りました。
国内各地や朝鮮に旅して研究を重ね、1926年(昭和元)東京の祖師谷(世田谷区)に居を移し国画会に入りました。
この頃から染付や赤絵磁器に新境地を開いて高く評価され芸術院会員となりました。
戦後は京都に移って美術大学(現京都市立芸術大学)の教壇に立つかたわら、かねて不満を抱いていた民芸派や国画会と手を切り、もっぱら制作に専念し、数々の記念すべき業績を遺して1963年(昭和三八)6月、七十七歳で没しました。
彼が一般陶芸家と異なるところは、深い学識のうえに極めて旺盛な研究心を持ち続けた点であるでしょう。
工芸意匠についての該博な知識を蓄えながらそれに拠ることを排し、常に新たな写実からの図案の創作・適用を図り、技法面にも多くの新境を開いたその業績は、近代陶芸の最高峰と称して誤りないようです。
『窯辺雑記』をはじめ多くの著書があります。

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