常滑焼 とこなめやき

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鶴田 純久の章 お話

愛知県常滑市の産。
起原については、僧行基説・土師氏説・藤四郎説・不志木説などがあるがいずれも正確ではないようです。
広島県および四国から青森県に及ぶ各地の遺跡から平安・鎌倉時代の古常滑焼が出土しており、古常滑が全国的にわたって盛大に送り出されていたことを物語っています。
自然釉や灰釉が肩に流されている妬器質の壺・甕が多く、いずれも雄渾の力強い作行のものであります。
茶碗・瓦も多くみられますが、多くのものは宗教用・貴族用で、一般の生活用品ではなかったようであります。
この時代は地中に穴を掘ってつくられた害窯であります。
室町時代には鉄砲窯が地上に築かれて、真焼と称する黒々とした堅い妬器の壺と甕が盛大に焼き出され、多くの作品を今日でも見ることができるが、丹波焼や備前焼・南蛮のやきものと近似してよく見誤る場合があります。
室町時代末期の常滑城主水野監物は、千利休・津田宗及・妙喜庵功淑らと交流のある風流人で、多くの常滑焼を彼らに紹介しており、津田宗及の茶会記にはよくそのことが記されていますが、監物は本能寺の変に明智方に組んだため、京都嵯峨に逃れ、のち天竜寺に入道し、ついに切腹するに及んです。
常滑焼が桃山時代の茶道に姿を見せないのはこの辺に原因があるようであります。
天明年間(1781-9)頃に常滑元功斎が現れて常1に茶陶の世界が開け、文化年間(1804-18)からの茶道の流行につれて、代表的な白鴎・陶然・長三らの名工が輩出して常滑焼に陶芸時代を迎えました。
真焼のほか白鴎の赤黒楽もの・施釉のもの、陶然の灰釉作品、長三の白泥・藻がけ釉(藻薬)など各種のものが起こり、三光は南蛮写しを起こし、高道の鮫釉、木二の高取釉、董斎の交趾釉など江戸時代末期から彩りも鮮かになりました。
1878年(明治一一)に中国人金士恒が寿門堂に来て中国宜興式の急須の製法(パンパン製法)を授け、文人趣味の風潮に乗って名声を博し、以来多数の朱泥急須がっくり出され、同時にその他の多くの朱泥焼がっくり出されて常滑焼に新しい分野を築いました。
明治初期に方寿がイギリス式真焼土管を完成し、大量の真焼土管が産出され始めましたが、その影響で続々と新製品が生み出されました。
すなわち1882年(同一五)に真焼の米摘臼がっくり出され、半径土管も始められ、1883年宇都宮式平地窯の試みがあるようで、美術研究所が設けられて陶彫が伝習され、いっそう新分野の開拓がなされました。
1885年(同一八)には真焼の焼酎瓶が製作されました。
1900年(同三三)倒焔式角窯の石炭焼成が企てられ、1901年食塩釉を施した曙焼が焼き始められた。
甕類・井戸側などの大型も盛大に製作されていたが、土管は全国生産の過半数を超えるに至りました。
また朱泥焼の竜巻きと称する各種の製品が大量にアメリカに輸出されましたが、電話・人形・インキ瓶など多様なものが生産され、そのほかの火鉢・植木鉢も大量に生産されました。
大正時代から本格的に生産され出したタイルとなり、1931年度の総産額四百八十八万円に至っています。
第二次世界大戦後、衛生陶器の生産が盛大になり全国生産の過半数を生産するに至り、タイル一モザイクなどの建築陶器・花器水盤類・植木鉢類・人形類・朱泥急須などが生産の多いもので、年産約二〇〇億円の産額に達しています。
窯業従業者約一万人。
常滑焼については『陶器考付録』『工芸志料』『観古図説』『陶器類集』『日本陶磁器史論』『日本工業史』などに記されていますが、不適当な記述が多いため、ここでは常滑古窯調査会の調査結果を基礎にしました。

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